◆旧東海道_高麗橋-枚方2019年07月13日

2019年7月9日(火)曇り

大阪の高麗橋から京都山科追分までの、いわゆる京街道を

三日間かけて歩いた。

今日は1日目で、枚方(ひらかた)宿まで進んだ。

 

江戸幕府が整備した東海道は、京都三条大橋が終点ではなく

京都山科追分からさらに大阪まで延びていて、伏見宿、淀宿、

枚方宿、守口宿の四つの宿場がある。

したがって、これらを含めて、東海道五十七次と言われる。

 

ただ、京都から大阪に向かう場合は、淀川の川下りが利用

されて、大阪から京都に行く場合のほとんど一方向のみに

街道が使われたこともあり、東海道の一部だということは

あまり知られていないようだ。

 

ちなみに、京街道が京都の中心部を通っていないのは、

参勤交代で通る大名を、京都の公家達と合わせないように

するためとのこと。



 

京阪北浜駅に着いたのが9:15。

出発点の高麗橋に向かうが、地下駅から地上に出た時に、

持参した地図上のどの場所に出たかで少し混乱して、

ちょっと道に迷った。

 

(1)高麗橋【9:28】


(2)里程元標跡【9:30】

江戸時代、大坂における里程計算の起点は、高麗橋の東詰

にあった。その位置に建てられた元標跡の石碑。

(3)前島密の像【9:34】

北浜東郵便局の前にあった。

ただ、東京でも見たことはあり、この場所に特有のもの

ではないようだ。

(4)八軒家船着場の跡【9:40】

船宿などが八軒並んでいたことから、その名がついたと

言われている。

京(伏見)と大坂を結ぶ「三十石船」と呼ばれる過書船の

ターミナルとなるなど、淀川舟運の要衝として栄えた。

 

なお、過書船(かしょぶね)とは、過書(関所の通行証)

を持つ船のこと。

八軒家船着場を描いた浮世絵

(5)京橋川魚市場跡【9:49】

ここに書かれている「雑魚場市場」とは「雑喉場市場」

とも書かれ、現在の阿波座駅近くにあった魚市のことで、

天満の青物市、堂島の米市とならぶ大坂三大市場の一つ

として、大坂人の台所をまかなっていたとのこと。

 

(6)大阪城【9:54】

街道から見えた大阪城。

地図では近かそうだったが、意外に小さくしか見えなかった。

(7)のだばし址【10:02】

寝屋川に平行して鯰江(なまずえ)川が流れていたが、

それに架けられていた橋で、公儀橋(こうぎばし)

(幕府が直接管理する橋)に指定されていたとのこと。

(8)JR線と交差する地点の高架橋【10:16】

下の写真の中央が、今は商店街となっている旧街道。


(9)道標【10:27】

(10)榎並(えなみ)地蔵【10:28】

榎並地蔵の横に掲示してあった地図。

(11)道標【10:48】

比較的新しいもので、あちこちに建てられていた。

しばらくは「関目七曲り」といわれた複雑に曲がりくねった

道だったが、こうした道標のおかげであまり迷わずに進めた。

(12)関目神社【11:02】

「関目」という地名は中世の榎並荘(近衛家の荘園)の

時代からあり、この地に見張り所(目で見る関所)が

あったことから。

(13)明治天皇聖躅(せいちょく)碑・西井茶屋址

【11:08】

慶応4年(1868321日、江戸へ向かって官軍が進行

する中、15歳の明治天皇が京御所を出発し、23日には

関目の西井茶屋で休憩した。石碑はその折のもの。

 <項(26)の解説参照>

(14)道標【11:13】

(15)京街道の説明板【11:20】

 残念ながら非常に読みづらい。

 街並み。再び商店街になる。【11:22】

道路上の標識【11:24】

(16)木犀(もくせい)の陣屋跡【11:29】


(17)守居神社【12:11】

 


街角ののぼり【12:44】

(20)高札場【12:50】

(18)文禄堤(ぶんろくつつみ)【12:50】

 (19)文禄堤説明板【12:50】

道標タイル【12:52】

(21)守口宿案内図【12:53】

北が下側になっているので、ちょっと混乱する。

(22)大塩平八郎ゆかりの書院【12:54】

守口宿の豪農、白井家の隠居所。(今はマックの駐車場)

白井孝右衛門は大塩平八郎と師弟関係にあり、経済的にも

平八郎を援助していた。ここで挙兵についての密議や

打合せがおこなわれたとされている。

(23)守口宿本陣跡【12:55】


(24)道標群【12:56】

(25)難宗寺【12:57】

浄土真宗の寺で守口西御坊と呼ばれる。

それに対して次項の盛泉寺は守口東御坊と呼ばれる。

(26)盛泉寺(じょうせんじ)【12:58】

浄土真宗の寺で守口東御坊と呼ばれる。

1868年に、大阪遷都の含みを持った明治天皇の大阪

行幸があり、内侍所(三種の神器の鏡を安置する処)と

して盛泉寺、行在所(天皇宿泊所)として難宗寺がその

役割を果たしている。

その後、天皇は大阪北御堂で40数日滞在してから京都

へ戻っている。

同年に江戸城無血開城があり、都が東京に移り、大阪遷

都の案はなくなった。

(27)守口一里塚【13:01】

(28)京街道の案内板【13:05】

(29)正迎寺(しょうこうじ)【13:21】

(30)道標【13:25】

(31)堤防入口【13:27】

ここから堤防の上の道を進む。

堤防道の様子【13:41】

大体の区間が車両通行止めなので、交通事故の心配はない。

しかし、とにかく何もない。

今日は陽が出ていないからよかったが、真夏に陽が照り

つけていたら、あっというまに熱中症かな!?という道。

 

道標も周囲の目印になる建物もなく、アナログ的に紙地図

片手に歩いていく身にとっては、現在地点の把握が難しく、

ちょっと不安なウォーキングだった。

(32)佐太樋跡【13:54】

生活・農業用水を淀川より汲み取る樋(とい)が設けられ

ていたことの記念碑。昭和に建てられたもの。

(33)佐太天神宮【14:08】

国道1号線沿いにあるので、一旦堤防から下りた。

 

藤原道真が大宰府に流される際、しばらく舟をつないだ

地に祠をたてたのが始まりとか。

無実の証明が為されることを期待して、都からの沙汰を

待っていたとのことで、この「沙汰」が転訛して地名が

佐太になったと書かれてあった。

 

写真のように鳥居の上部が欠損している理由を、後日

調べたがよく分からなかった。


<2022年1月10日追記>
改めて調べたら、この鳥居は2018年6月18日に
発生した大阪北部地震のときに欠損したとのこと。
この地震では、大阪府内で死者6名、2府5県で負傷者
462名、住家の全壊21棟・半壊483棟の被害が
あったそうだ。

(34)茨田(まんだ)堤碑【15:10】

日本書紀に登場する、日本で最初の堤。


根こそぎ倒れていた樹木【15:24】

普通に考えると台風か?

ここから5分位進んでから堤防の道を下り、一般道を進む。

  

(35)親鸞聖人・蓮如上人御田地標柱【15:41】

御田地とはお上から預かった田畑のことだが、ここでは、

説教をした場所のこと。

(36)光善寺【15:45】

(37)道標【16:26】

(38)枚方宿西見附【16:27】

ちなみに見附とは、見張りがいて通行人を監視した所。

枚方宿の街並み【16:29】

(39)枚方宿鍵屋資料館【16:30】

「鍵屋」は、江戸時代には宿屋を営み、幕末頃になると

淀川三十石船の「船待ち宿」としても繁盛したそうだ。

街並み【16:32】

(40)淀川舟運(しゅううん)・枚方浜(問屋浜)跡

【16:33】


(41)浄念寺【16:35】

(42)枚方宿本陣跡【16:39】

(43)妙見宮常夜灯石灯籠【16:43】

駅前の枚方宿説明板【16:46】
 片側の石の下に西見附と書かれているが、その上の地図
 でも西見附はもっと西の位置に記載されている。
 なんでわざわざこんな表示が??


 (45)枚方宿表示&説明板【16:47】

(46)枚方市駅前の交差点【16:48】


本日は、予定通りここまでとした。

歩行時間は、休憩を含めて7時間20分だった。

   

歩き始めてしばらくは、街道が商店街に変わっている

場所が、意外に多いように感じた。商人の街、大阪

ならではのことなのか?

 

中盤以降は、ほとんど何もない堤防の上の道が多く

なり、通算で2時間近く歩いたことになる。

ここが今回の経路では一番疲れを感じた。

 

今まで歩いてきた旧街道では、駅周辺は再開発が進んで

古いものが壊されいることも多かったが、今回は、

意外に、守口市や枚方市等の駅周辺には、旧街道らしい

佇まいの建物が残されていて、旧街道歩きの雰囲気を

そこそこ楽しことが出来た

  

以上

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◆旧東海道_枚方-伏見2019年07月17日

2019年7月10日(水)曇り時々晴れ

大阪の高麗橋から京都山科追分までの京街道を三日間

かけて歩いた。

今日は2日目で、枚方宿から伏見宿まで歩いた。

前日の終了地点の枚方市駅前交差点を7:47に出発。

 

(1)宗左の辻の道標【7:47】

京街道と磐船(いわふね)街道との分岐点。

磐船(いわふね)街道とは、枚方と奈良県生駒市を結ぶ

街道で、途中、交野市磐船を通り、大和とを結ぶ重要な

道の一つだった。

当時、角屋宗左と言う油商人の屋敷がこの辻に在ったこ

とから「宗左の辻」と呼ばれていた。とのこと。

ネット上の記事には、すぐ近くにあった次の道標が

「宗左の辻」の道標だと表示されている。

これが少々分かりにくいので、前掲のものを改めて

新設したのだろうか??

(2)枚方橋跡【7:49】

(3)東見附【7:54】

(4)鵲(かささぎ)橋【7:56】

前項の枚方橋の説明にある、昔の「枚方ノ橋」。

(5)延命地蔵【7:59】

しばらく府道13号線(京都守口線)を進む。

府道の右側を京阪電鉄が走っている。【8:05】

(6)清傳寺【8:22】

江戸時代から寺小屋として子供たちの教育に力を入れて

きたため、明治の学制制定をうけ、1875年から18

77年(明治8~10年)この地区の小学校として開校。

これが現在の殿山第1小学校とのこと。

明治初期には、寺そのものが小学校として使われたとい

ことを初めて知って、ちょっと驚いた。

牧野駅前を過ぎてからしばらくは、線路沿いの細い道を

進む。【8:40】

(7)道標&お地蔵さん【8:48】

街道から見た樟葉駅(駅裏)【9:10】

(8)樟葉駅前で休憩。【9:16】

その後、次項の史跡に立ち寄るため、街道歩きから一旦

離れてバスに乗った。【9:47】

(9)継体天皇 樟葉宮跡(くずはのみや)伝承地【10:05】


(10)交野天神社(かたのてんじんしゃ)【10:10】

「かたのあまつかみのやしろ」とも読まれる。

 

桓武天皇が延暦6年(787年)、交野に父光仁天皇を

祀るための郊祀壇を設けたとあり、ここがその地と

されている。

その後、樟葉駅にバスで戻り、昼食。

11:05に駅を出発。

  

 <2021/01/13追記>・・・・・・・・・・・・

馬部隆弘氏の著書「椿井文書(つばいもんじょ)--日本

最大級の偽文書」を読んでいたら、最終章(219ページ)に

次の記載があった。

「河内国交野郡樟葉村の交野天神社は、継体天皇樟葉宮跡

伝承地として大阪府指定史跡となっているが、この伝承は

明治10年前後に樟葉村の今中五郎が創作したものである。」

・・ちょっと唖然とした。

 

これが正しいなら「大阪府指定史跡」は「偽史」そのもの。

 

この著書は椿井文書に関してのものだが、椿井文書は例外的

なものではなく、近世には偽文書は無数に存在するとのこと。

 

これは、偽文書の存在に関して多くの歴史家が無警戒、無頓

着であり、また、行政は「町おこし」のためには、伝承の

真偽に関してはほとんど無関心であることがあげられる。

 

本の中の記載だが、ある事例に対して不適格な記述の書換え

を要望したところ、市の担当者からは「史実でなくてもいい

から、子供たちが地元の歴史に関心を持つことのほうが大事」

と明言されたとのこと。

 

こうしたトンデモない認識が行政側にあることに「お役所

仕事」の非常に不誠実な実態を示されたようで、大きな失望

を感じる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

    

(11)駅裏の細い道を進む。途中にあった道標【11:09】

壊れた道標は初めてみたが、表面だけが石材で、中心部は

コンクリートなんだということの方が意外な発見だった。

(12)久親恩寺(くしおんじ)【11:23】

延宝年間 (16731681)創建の禅寺で、江戸時代、長州藩主

通行の際の重要な休憩所にあてられていたとのこと。

鳥羽・伏見戦争で全焼。

(13)樟葉台場跡【11:27】


橋本駅の裏に差し掛かると、旧街道らしい道が少し続く。

【11:48】

実はここはかつて日本屈指の遊郭街だったそうで、井原

西鶴の代表作「好色一代男」の舞台ともなった場所。

ただ、鳥羽・伏見の戦いで大半が焼失してしまったらしい。

   

(14)渡し場跡石碑【11:50】

ここは、京都の裏鬼門を守護する岩清水八幡宮のある男山

丘陵の西麓であり、かつ淀川の左岸にも位置するので、

1962年(昭和37年)まで、対岸の山崎との間に渡し船が

運行されていたとのこと。

  

(15)道標【11:56】

(16)常夜灯【11:59】

堤防沿いの狭い道を進む【12:02】

橋の前まで来て、振り返って見た石清水八幡宮【12:17】

思っていた以上に小さくしか見えない。

(17)木津川御幸橋【12:18】

(18)淀川三川合流域さくらであい館【12:23】

「淀川三川合流域」は、桂川、宇治川、木津川という三大

河川が合流して淀川になる地点。それで「であい」館か。

  

道の駅的な感じだが店舗はない。自販機のみ。

会議室などもあってイベントも行われるとのこと。

その後、宇治川を越え、桂川の手前で右折して進む。

 

(19)美豆城跡【12:58】

「みまめ」ではなく「みず」と読む。

(20)凉森神社(すずのもりじんじゃ)【12:59】

(21)道標【13:10】

「淀の道」と読める。

(22)文相寺【13:15】

街並み【13:16】

(23)京都競馬場の横を通る【13:38】

(24)淀小橋増築碑【13:40】

明治11年に建てられたもの

(25)唐人雁木旧趾【13:47】

「唐人」(からびと、又はとうじん)とは中国、または

朝鮮の人。

ここでは、朝鮮王から祝賀のため派遣された朝鮮通信使

を指す。

「雁木」(がんぎ)とは、階段かそれに似た形状を持つ

構造物のことだが、ここでは船着場の階段の意。

通信使が大坂から川船で淀川をのぼった際の上陸地点が

すなわち唐人雁木。

納所(のうそ)の説明板

(26)淀小橋旧趾【13:50】

しばらく行くと、京阪電鉄に沿った道となる。【14:01】

線路の奥には京都競馬場。振り返って撮った写真。

(27)戊辰役東軍戦死者埋骨地【14:02】

後日調べると、脇の碑には「慶応四年戊辰正月伏見鳥羽の

戦に敗れここ淀堤千両松に布陣し薩摩 長州の西軍と激戦を

交し、悲命に斃れた会津 桑名の藩士及び新選組並びに京都

所司代見廻組の隊士の霊に捧ぐ」と書かれてあるとのこと。

踏切を超えると宇治川の堤防上の道になる。【14:16】

なぜか川側にはフェンスが。 

それなりに頻繁に車が通るので、フェンスで道脇に逃げら

れないということもあり、いささか怖い。

フェンスがなくなってしばらく歩くと、道は4車線の国道

1号線を横切ることになる。しかし、その交差点(28)には

横断歩道も信号もない。

車の往来は途切れないし、いささか困ってしまった。

 

ふと脇を見ると、斜め下に下りて行く獣道のような、草が

みつけられ出来た細い道が見えたので、そこを通って

1号線の通る橋の下をくぐった。

  

写真は振り返って撮ったもの。【14:26】

京街道と言っても、ここを人が通ることは想定外なので

しょうね。

しばらく進むと細い川に突き当たる。

そこに掛けられた仮設のような細い橋を通る。

(29)細い橋【14:36】

(30)三栖閘門(みすこうもん)【14:47】

閘門とは、運河・放水路などで、水量を調節して水面を

一定にするためのせき。

 

三栖閘門は伏見港と宇治川を結ぶ施設として昭和4年に

作られた。

現在は使われていない。

(31)伏見港公園【14:55】

旧街道らしい町並みに戻る。【14:57】

(32)道標【15:14】

伏見土木事務所の玄関脇にあった。

(33)伏見長州藩邸跡【15:14】

(34)京橋【15:16】

濠川(ほりかわ)に掛かる橋。

濠川は伏見城の外堀で、淀川に繋がっている。

その川に沿って遊歩道が整備されていて、次項の像も

そこにある。

(35)龍馬とお龍、愛の旅路像【15:18】

寺田屋で手に重傷を負った龍馬が、寺田屋向かいにある

この場所から舟に乗り、お龍と一緒に霧島へ旅に出た

とのこと。

日本初の新婚旅行と言われるもの。

ただ、観光名所的な銅像には少し違和感が・・・・

竜馬通り【15:21】

(36)寺田屋【15:22】

寺田屋に宿泊していた龍馬を伏見奉行所の捕り方が襲い、

それをちょうど風呂に入っていた「お龍」が察知して、

薄物一枚羽織っただけで階段を駆け上がり、龍馬に知ら

せる・・・。という有名なシーンの舞台。

 

京と大阪は淀川水運で結ばれていて、その京の玄関口が

この伏見。
 その伏見にはたくさんの宿があり、寺田屋もその一つで、

薩摩藩の定宿だったとのこと。
 龍馬は薩摩藩士のふりをしてここに泊まっていたらしい。

 

「寺田屋事件」があったのは慶応二年(1866年)で、

その二日前に薩長同盟が結ばれた。

 

歴史には色々な異説が出されるのだが、襲われたのは、

実は龍馬の作戦ではないかという説もあるとのこと。

 
 寺田屋で龍馬たちは逃げきったが、薩長同盟について

書いた文書は奉行所に押収された。それが「あえて」

なのではないかと。
 両藩の中には薩長同盟を良しとしない人々もいたので、

そこで薩長同盟を広く知らしめて、既成事実化しようと

した。という説なのだが・・・。

寺田屋の隣には坂本竜馬の像があった。

(37)電気鉄道事業発祥の地の石碑【15:26】

電車は東京ではなくこの京都に最初に引かれた。

明治28(1895)年に下京区東洞院通東塩小路踏切(旧東海道

)南側を起点として、この地伏見町油掛通までの約6km

を走ったとのこと。

(38)会津藩駐屯地跡【15:32】

(39)道標【15:43】

小学校の敷地内にあった。

この後、近くの丹波橋駅に15:55に到着。

本日は、予定通りここまでとした。

 

歩行時間は、休憩(及びバスでの移動)を含めて

8時間8分だった。

   

以上

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◆旧東海道_伏見-山科追分2019年07月21日

2019年7月11日(木)雨

大阪の高麗橋から京都山科追分までの京街道を三日間

かけて歩いた。

今日は3日目、最終日で、伏見宿から京都山科追分まで

歩いたが、あいにくの雨中のウォーキングとなった。

前日終了地点の丹波橋駅前交差点を8:14に出発。

 

(1)橦木町遊郭碑(しゅもくちょうくるわのひ)【8:25】

赤穂浪士を率いる大石内蔵助が、敵方の目をくらますため

遊興して密計を練った遊郭とのこと。

(2)墨染寺(ぼくせんじ)【8:29】

墨染桜(すみぞめざくら)で知られる桜の名所。

なお、地名の読み方は「すみぞめ」であり、近くの駅も

「すみぞめえき」。

(3)藤森神社【8:38】

菖蒲の節句発祥の神社としても知られ、また勝運と馬の

神様として、競馬関係者や競馬ファンの参拝が多いとか。



街並み【8:53】

(4)宇多天皇皇后御陵・仁明天皇御陵石碑【8:58】

  

宇多天皇(うだてんのう)

  第59代天皇、在位:887年~897

仁明天皇(にんみょうてんのう)

  第54代天皇、在位:833年~850


(5)大岩神社【9:11】


街道はすぐに府道35号線(大津淀線)と合流する。

すぐ横は名神高速道路【9:32】

(6)勧修寺【9:44】

開基(創立者)は醍醐天皇で、皇室と藤原氏にゆかりの

深い寺院とのこと。「山階門跡」とも称する。

なお、寺名は「かじゅうじ」が正式の呼称だが、山科区

内に存在する「勧修寺○○町」という地名の「勧修寺」

の読み方は「かんしゅうじ」とのこと。

(7)大宅(おおやけ)一里塚【10:12】


(8)愛宕常夜灯【10:27】

東海地方の旧東海道の常夜灯は、秋葉山信仰(浜松市天竜

区の秋葉山にある神社)から作られていた。

今回のこの常夜灯は、京都市右京区の愛宕山にある愛宕神

社から発祥した信仰からのものとのこと。

  

どちらも火伏(ひぶせ)の神(火災を防ぐもの)として信仰

されていた。

  

形状的には今回の常夜灯の方が小振りで作りもシンプル。

(9)岩屋神社【10:29】

本殿背後に「陰岩」「陽岩」と呼ばれる2体の巨岩が祀られ、

自然信仰の場となっている。

仁徳天皇31年の創建と伝えられる。

(10)宝迎寺【10:38】

西鶴『好色五人女』の主人公「おさん・茂兵衛(もへえ)

の墓があることで知られているとか。

これは実際の不倫事件を元にした小説で、さらにこれを

近松門左衛門が浄瑠璃『大経師昔暦(むかしごよみ)

1715)として脚色。

戦後も川口松太郎が『おさん茂兵衛』(1954)として小説

にし、さらにそれが『近松物語』の名で劇化されて、

「新派」の当り狂言になり、映画化もされたとのこと。

(ちなみに、「新派」とは1888年(明治21年)に始まった

日本の演劇の一派で、「旧派」の歌舞伎に対し「新派」と

称された。)

(11)愛宕山常夜灯【10:39】

宝迎寺の前にあった。

(12)道標【10:44】

「ひだり おゝつみち」「みぎ うじみち」。

(13)牛尾山道の道標【11:19】

牛尾山道は牛尾観音(牛尾山法厳寺)への道で、ハイキ

ングコースになっている。

牛尾山法厳寺は垂仁(すいにん)天皇の指示により建立

された祠が基になったとされているが、実は垂仁天皇の

実在性は定かでない。

 

御本尊の十一面千手観音菩薩は天智天皇の御親作仏として

知られ、秘仏になっているとのこと。

 

(14)追分の道標【11:32】

6月13日に、草津宿から三条大橋まで歩いたときに既に

到達していた追分。

<http://slowly-walker.asablo.jp/blog/2019/06/26/9092194>

「みきハ京ミち」「ひだりハふしミみち」と書かれている。

今回の最終目的地。

予定通り京街道を無事にすべて歩き終えることが出来た。

本日の歩行時間は、休憩も含めて3時間18分だった。

 

 今日は終日の雨が残念だったが、梅雨時なのにその前の

二日間は雨に会わずに済んだので、そちらの方の幸運を

感謝したい。

  

川の堤防沿いの道から、商店街や、高層道路沿いの道など

変化に富んだ街道を歩いた三日間だった。

  

全体を通して、いわゆる史跡はさほど多くは残されていな

かったが、旧街道の雰囲気を感じさせるところもいくつか

り、興味深かった。

   

  

以下に、三日間で見つけたマンホールの蓋を、まとめて

載する。

  

大阪市

大阪市の花「パンジー」が描かれているもの。

EXPO1990も描かれている。

大阪市

大阪城と市の木「サクラ」が描かれている。

大阪市

大阪市役所北側の水晶橋と、その下を通るアクアライナー

(水上バス)、遠景に大阪城とツインビルが描かれている。

守口市

昭和60年10月に完成した京阪守口駅前開発のシンボル

である「カリオン」(希望の鐘と名付けられた守口市と

再開発地を結ぶ歩道橋のモニュメント)を中心に、市の花

である「さつき」を周りに配置し、図案化したもの。

守口市

水玉模様に市の花サツキがデザインされたもの。

中央は市章

寝屋川市

市の木「サクラ」と市の花「 バラ」が描かれている。

中央は市章。

枚方市

市の花「キク」と淀川を下る三十石船が描かれている。

京都府八幡市

中央は市章。

(2羽の鳩は「八」を形どり、その周りを竹で囲んでいる)

京都府八幡市

市の花「サツキ」を全面に配している。

これで、旧東海道(日本橋-京都三条-大阪高麗橋)を

すべて自分の足で歩き通すことが出来、ひとまずの一区

切りがついた。

感無量というほどの感激はしていないが、ささやかな満

感はじんわり感じている。

  

ただ、脇街道(脇往還)である姫街道だけは、まだ歩い

ていないので、次回はそこを踏破して、それで旧東海道

歩きからは卒業する予定である。

以上

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◇高田富士塚巡り2019年07月23日

2019年7月15日(月)曇り


2019年3月24日に、新宿及び早稲田界隈の、五つの

富士塚と史跡を回ったが、その時訪れた高田富士は、周囲

柵と建物に完全に囲まれていて、まったく近寄れなかった。

高田富士は、富士塚の中でも江戸市中で最古、最大のもので、

歌川広重も描いた名所だったと言われている。

(なお、「安藤広重」という呼称は、実際には本人が使用した

 形跡がなく、「歌川広重」が正しい呼び名とのこと。)

 

年に一度だけ、海の日とその前日にのみ登拝が許さるとの

ことだったので、海の日の本日、再訪した。

   
  

都道25号線(飯田橋石神井新座線)沿いの階段には、提灯

が飾ってあって、すぐに入口が分かった。 

以下、順に写真を示す。

なお、写真にときおり映っている人たちは、たまたま

その撮影した場所に居た人たち。

(特に撮影許可はもらっていません。あしからず。)

途中にある案内板が、ベニヤ板に手書きで書かれたもの、

というのが、手作り感満載で、高田富士をあまりメジャー

な観光スポットにはしたくない、という気持ちからのもの

だろうと、勝手に(好意的に)解釈しておくことにした。




手すりも仮設のようにしか見えない木製。











入口にあった手書きの説明板


入口付近には屋台も出ていたが、天気があまりよくない

こともあって、ほとんど人がいなくて閑散としていた。

とりあえず、実際にきちんと高田富士に登れてよかった。

 

本当は、もう少し遠方から、浮世絵のような全景を見て

みたかったが、それは現状ではやむを得ないと思う。

 

ただ、なんで普段はあそこまで隠して見せないのかなあ、

という事は、やはり気にしざるを得ない。

 

以上、