◆旧浦賀道_能見台-瀬ケ崎 ― 2020年09月06日
2020年5月11日(月)晴れ
(2020年8月7日(火)再訪)
旧浦賀道(うらがみち)は、実は自宅の近くを通っていて、
部分的には何度も歩いている区間も多いのだが、特に浦賀道
と意識して歩いたことはなかった。
今回、改めて全体を通して歩いてみることした。
享保五年(1720年)、江戸湾防備のために伊豆下田から浦賀
へ奉行所が移されると、江戸と浦賀間の人や馬の往来のため
東西二本の道が作られた。これが浦賀道(うらがみち)。
東は旧東海道の保土ヶ谷宿から、
西は戸塚宿から浦賀に至っている。
なお、保土ヶ谷宿から金沢八景までは金沢道(かねさわみち)
とも呼ばれている。
ちなみに、金沢八景は風光明媚な入り江が続く景勝地として
江戸時代から知られていたそうで、この道を通って多くの人が
訪れていたそうだ。
初日の今日は、自宅から徒歩で移動できる範囲の、能見台
から瀬ケ崎までの区間を歩いた。
(1)能見堂緑地入口【9:50】
(2)分岐点【9:51】
ここから浦賀道になる。
道は六国峠ハイキングコース(横浜金澤散策コース)の一部
となっていて、反対方向(写真左)へ行けば鎌倉まで歩ける。
(但し昨年(2019年)の台風被害で一部まだ通れない
区間もある。)
今はハイキングコースと呼ばれるような山道が、当時の
メインの街道だったということで、江戸時代の人々の
健脚ぶりが想像できる。
(3)舗装路(手前)への出口【9:59】
途中の数十メートルだけ舗装路になっていて民家の横を通る。
それが(3)から(4)の区間。
(4)舗装路(手前)からの再入口【10:00】
この区間はしばらく視界が開ける。
空気が澄んでいれば富士山も見られるが、今日は残念ながら
見られなかった。
(5)能見堂緑地【10:02】
(6)能見堂跡【11:04】
下記の案内に記されているように、ここからの眺望が
すばらしかったので、金沢八景と呼ばれていたとのこと。
現在は海岸線からはかなり離れた場所なので、初めて
この話を聞くと驚くが、江戸時代までは、このすぐ傍まで
海岸線が来ていたということ。
案内板にあったその当時の地図を見ると納得する。
上の写真は、享和三年(1803)に、江戸の庶民百数十人
によって建てられた「金沢八景根元地」の石碑。
しばらく行くと下り始める。
(7)石塔群【10:11】
左端の小さな石碑は馬頭観音。その他は不明。
(8)一般道への出口【10:14】
ここに記されている六国峠は、かなり先の鎌倉市にある峠
の名前で、天園(てんえん)とも呼ばれていて、昔は休憩
所があった。(数年前に廃止になった。)
六つの国(武蔵、相模、上総、下総、安房、伊豆)が眺め
られたことが由来とか。
しかし、この入口で道案内の表示を出すなら、能見堂跡か
金沢自然公園のほうが自然なようにも思うのだが。
(9)庚申塔【10:17】
(10)君ケ埼稲荷神社【10:24】
道脇の小規模な神社。屋根上の左右に石造のきつねがある。
社の脇には、無縁仏供養塔と不動明王等の石仏がある。
(11)金沢八幡神社【10:33】
金沢文庫の古文書に、700年前の称名寺造営の為の機材を
運ぶ舟が八幡河岸(がし)に陸揚げした、とあることから、
この神社も鎌倉時代には存在していたとのこと。
(12)町屋神社【10:36】
(13)庚申塔【10:38】
両脇に狛犬があるものは初めて見た。
本来は別の場所にあったものを、後からセットにして設置
したようにも思えるのだが・・・
(14)龍華寺【10:39】
(15)洲崎神社【10:41】
(16)憲法草創之處碑【10:45】
かつてこの辺りに料亭東屋(あずまや)があり、ここで
伊藤博文を中心に、明治憲法の骨格が練られたとのこと。
(17)「明治憲法起草の地」説明板【10:46】
(18)姫小島水門跡【10:49】
金沢地区の干拓事業をすすめてきた永島家六代目段右衛
門が、金沢入江新田開発のため造ったもの。
天明5年(1785)に完成。
(19)琵琶島神社【10:54】
社自体は小さい。
入口の両脇にシュロの木がある神社は珍しい。
入口にあった福石
全体像が分かりにくいので、Webにあった航空写真を示す。
(20)瀬戸神社【10:56】
(21)泥牛庵(でいぎゅうあん)【11:02】
寺号の由来は、禅語に登場する「泥牛」という言葉で、
泥は煩悩、牛は仏にたとえられ、煩悩にとらわれぬ境地
で悟りを得ることを意味するそうだ。
寺を開基したのは、鎌倉末期の執権・北条高時。
(22) 八景一見之地石碑【11:03】
道を挟んで泥牛庵の向かい側にある。
「八景一見之地飛石」と刻彫されている。
享和二年(1802)年に金龍禅院が建立したものとのこと。
ネットに江戸時代の「武昌金澤八景之圖」が出ていたので
次に示すが、ここに「八景一見之地」の表示が見られる。
(この図は、(19)の琵琶島に掲示されていた説明板にも
記載されている。)
この図には、泥牛庵や琵琶島、(16)に示した東屋も
記されている。
またこの図の左上は海で、能見堂跡での案内板の記述にも
あったが、今よりもかなり広い範囲が海だったことが分かる。
これを分かりやすく示した図が金沢区のHPにあったので
次に示すが、これを見ると、ここまで歩いてきた浦賀道は、
実は瀬戸入海に沿っていた道だったことが分かる。
<鎌倉時代>
<現在>
(23)金龍禅院【11:04】
昇天山金龍禅院(しょうてんざん きんりゅうぜんいん)
昇天山の山号は、昔この寺で硯の中から龍が昇天した
からと伝えられている。
本堂後ろの丘にあった九覧亭(きゅうらんてい)からの
眺望は金沢随一といわれ、江戸時代から観光地として
大変な賑わいをみせたとのこと。
創建:永徳年間(1381~84)
(24)上行寺東遺跡(じょうぎょうじ ひがし いせき)
【11:07】
少し急な階段を上る。
街道歩きからはちょっと異質な場所だった。
遺跡といっても穴があるだけなので、この上にどのような
建物があったのか、なかなか想像するのは難しい。
(25)上行寺(じょうぎょうじ)【11:13】
遺構へ上る階段から見える上行寺。
(26)諏訪之橋【11:23】
下を流れるのは侍従川(じじゅうがわ)
歌舞伎などの演目の「小栗判官」のヒロイン・照手姫
(てるてひめ)が、追手に捕まり川に投げ込まれたことを
知った乳母の「侍従」が、それを嘆いてこの川に飛び込ん
だことから、この名前がついたという。
(27)三艘(さんぞう)橋【11:27】
三艘は昔の地名。
唐船が来泊して、称名寺にある一切経、青磁花瓶、香炉、
唐猫等を持って来たので、その着岸したところに三艘の
地名がついたとも。
一説には、その後北条顕時、貞顕のころまで唐船が三度
来着したので三艘の地名がついたとも。
(28)庚申塔【11:29】
(29)六浦東交差点【11:36】
本日はここまでとした。
歩行実績は1時間45分だった。
以上
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◆旧浦賀道_上大岡-能見台 ― 2020年09月13日
2020年9月1日(月)曇り
5月11日に、浦賀道の中の、能見台から瀬ケ崎までの
区間を歩いた。
それに続き、少し時期がずれてしまったが、その前段に
なる上大岡から能見台までの区間を、本日歩いた。
(1)上大岡駅東口(裏口)【9:38】
京急上大岡駅の駅裏にあたる東口を9:38に出発
(2)上大岡駅東口石仏群【9:38】
出てすぐ目の前に石仏群がある。
地蔵尊を中心に馬頭観音塔2基、庚申塔1基、道祖神1基、
及び石段築造碑が立っている。
庚申塔には1684(貞享元)年の銘があるが、これは江戸
時代前期、徳川綱吉将軍の時代。
そんな昔の庚申塔が今も駅前に鎮座している。
(3)青木神社【9:46】
もと、多々久之郷六箇村(久保、最戸、中里、弘明寺、
井土谷)の総社。
天明六年(1786年)の大岡川の大洪水により、大岡川の
流れが変わり、社殿が上大岡側に取り残され、今でも
大久保2丁目は青木神社の社地だけが川を越して残された
と言われているとか。
(4)岡本橋記念碑【9:57】
(5)横浜刑務所【10:01】
刑務所というと高い塀に囲まれた暗いイメージがあるが、
ここは、さしたる威圧感も感じさせずに住宅街に静かに
馴染んでいる。
調べると、ここでは毎年11月に「矯正展」が開催され、
そこでは、全国の刑務所で作られた品物を売る店が立ち
並び、さらに、ステージでは何かしら演奏やダンスが
あるとのこと。
ネット掲載の写真を見ると、まるで学園祭のよう。
その期間中のみ刑務所内に入れる施設見学が、かなりの
人気とか。
(6)鰻(うなぎ)井戸【10:10】
(7)街道で見つけたポスター【10:18】
「浦道健一」という人の選挙ポスターを偶然にも発見。
ひょっとして、浦賀道に何か由来のある人か、と思って
調べたら、県議会議員さんで、出身地は長崎県とのこと。
よって、残念ながら浦賀道とはまったく関係なし。
(8)新川橋交差点【10:20】
ここからは大通りを外れ、写真の左側の細い路地を進む
ことになる。
路地の途中の光景
(9)「かねさわ道」説明板【10:30】
浦賀道のうち、保土ヶ谷宿から金沢八景に至るまでの道は
「金沢道(かねさわみち)」とも呼ばれている。
その説明板が、今回の道程の中で二か所あった。
(もう一つは(11))
ちなみに、「金沢街道」というと、金沢八景から朝夷奈
切通を通って鎌倉へ抜ける道とのこと。
ちょっとややこしい。
(以下の三つ目の参考図参照)
金沢道と金沢街道の説明図
(10)馬頭観世音と石塔群【10:38】
かなりの数の石塔群が、普通の墓石といっしょに並んでいた。
この数にはちょっと圧倒される。
(11)かねさわ道案内板【10:40】
一旦大通りに出るが、すぐに、栗木の交差点の手前で再び
わき道に入る。
そのわき道を進むと、そのまま環状3号線のトンネルの
上を通る。
次の写真はそのあたりの道の様子。
環状3号線を渡り切ったところで、階段を上ると、完全に
山中の山道になる。
(12)階段【10:48】
(13)庚申塔【10:50】
少し進むとそのまま下りになり、笹下釜利谷道路(ささげ
かまりやどうろ)と並行した、住宅街の中の細い道になる。
ここからしばらくは特に史跡は見当たらない。
上中里交差点付近を通ってからは再び上りになり、整備
された住宅街の端を進むことになる。
道なりに児童公園の手前で右手に上っていく。
(14)岩船地蔵尊【11:13】
ここから先は、旧道は完全に消滅しているので、住宅街の
中をジグザグに縫うように進んでいき、能見堂緑地入口から
ハイキングコースの途中に合流する。
(15)能見堂緑地入口【11:42】
(16)「シティー能見台西」の出口への分岐点【11:50】
ここから先は、既に5月11日に歩いているので、本日の
街道歩きはここまでとした。
歩行時間は、途中の休憩も含めて、2時間12分だった。
以上
◆旧浦賀道_瀬ケ崎-逸見 ― 2020年09月18日
2020年9月4日(金)晴れ
5月11日に、能見台から瀬ケ崎までの区間を歩いたが、
それに続いて、瀬ケ崎から逸見(へみ)に至るまでの区間
を本日歩いた。
今回のルートの中には、経路が不明確な場所が2か所あり、
ちょっと途中で迷ったこともあったが、何とか踏破できた。
前回の終了地点である瀬ケ崎の交差点を9:31に出発。
ちなみにここは旧道が国道16号線と合流する地点。
(2)横須賀市との市境【9:35】
数分歩くと横須賀市に入る。
(3)傍示堂(ほうじどう)の石塔群【9:36】
昔、このあたりは天神山脈が東西に連なった険しい場所で、
その尾根道の峠を南北に貫くのが「浦賀道」だった。
傍示(榜示)とは杭や石などで境界を示すことで、
ここは、浦郷村(現在の追浜)と六浦荘村(金沢区)の
村境いであり、さらに相模・武蔵の国境でもあった。
このため、隣村から悪人や病気が入らぬよう、道祖神と
しての村の守り神として、さらに旅人の安全祈願などで、
古くから五輪塔・地蔵・庚申塔が祀られていたそうだ。
ちなみに、ここの五輪塔は鎌倉・室町時代のもので、
四面に梵字が彫られているかなり貴重なものだそうだ。
(4)雷神社(いかづちじんじゃ)【9:39】
正式には「いかづちじんじゃ」とされているが「かみなり
じんじゃ」の呼び方が地元では普通とのこと。
創建は承平元年(931)というからかなり古い。
祭られているのは、火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)
で、その名の通り雷神。
雷の猛威に対する畏れや稲妻と共にもたらされる雨の恵み
に対する、農耕民族であった古代日本人の信仰から生まれ
た神らしい。
ネット情報によると、社名をもじった独自のカクテル
「雷ジンジャー」が、2013年より周辺の飲食店で提供され
ているらしい。(未確認です。)
(5)雷神社旧跡【9:46】
雷神社の旧地で、落雷を受けたという神木のビャクシンが
立ち枯れたまま残っている場所。
街道の風景。静かな住宅街。
(6)良心寺とその門の傍の庚申塔【9:54】
庚申塔には、寛文12年(1672年)に作られたと
彫られてある。
(7)首斬観音(くびきりかんのん)【9:57】
天保年間(1830年~1843年)のころ、全国的に干ばつや
冷害が続いて飢饉が発生し、浦郷村(追浜)でも犯罪が
横行。捕らえられた犯罪者は、この近くの浦郷陣屋で
裁かれて処刑されたそうだ。
(ちなみに、天保8年(1837年)には、天保の飢饉で
苦しむ人々を救おうと、大塩平八郎の乱が起きている。)
大正末期に現在の国道16号線の工事の際、頭がい骨
だけが十数個発見され、地元住民が供養碑として石塔を
建てて供養した。
下写真中央の首斬観音と彫られた石塔は、昭和三年に
建立されたものだが、左右の石造の銘文には天時天保の
造立とあり、江戸時代からあったものらしい。
街道風景。
線路沿いはかなり細い道になる。
(8)登り口【10:07】
旧浦賀道は今の浦郷隧道(トンネル)の上を通っている
ので、その道を探して、隧道の手前にあった下記の写真の
階段を上ってみたのだが、すぐに行き止まり。
あきらめて下に降りて、隧道の中を通ることにした。
(9)街道風景【10:19】
(10)街道風景【10:29】
京急の線路の脇を進むと住宅街に入り、そこをさらに
進んでいくと、細い階段の道になる。
(11)池の谷戸公園【10:43】
前項のような坂道を登りきると、閑静な住宅街に出る。
この地域一帯を池の谷戸という。
ちなみに、谷戸(やと)とは、丘陵地が浸食されて形成
された谷状の地形。
谷(や、やと)・谷津(やつ)・谷地、萢(やち)・
谷那(やな)などとも呼ばれ、主に東日本(関東地方・
東北地方)の丘陵地で多く見られるとのこと。
池の谷戸は、大正時代から奥にテニスコートがあったり、
当時の先端をいく職業の写真館や食料・雑貨・米酒・塩
・味噌、郵便局を代行して赤ポストを置いて切手・ハガキ
も販売した商店などもあり、田浦でも進んだ地域であった
ようだ。
その中にあったかなり大きな公園が「池の谷戸公園」。
ここで少し休憩。
池の谷戸は宅地開発が進んで整地されているため、旧街
道が残っていない。
とりあえず、田浦山盛福寺を目指して、ジグザグに進む。
事前に調べたところでは、田浦山盛福寺の脇から、田浦山
隧道の出口に出る道があるはずなのだが、それがなかなか
見つけられなかった。
そのうちに、次の写真の「三浦アルプス登山口」が出て
きたので、この登山道の途中から本来の街道に出られるか
もしれないと思って、一旦ここを登ったのだが・・・
結論からいうと、この道はまったく旧浦賀道とは無関係。
大幅な回り道をしてしまった。
(通った尾根道は、かなり背の高い雑草が生い茂っていて、
けっこう進むのが大変だっただけに、非常に残念。)
(12)三浦アルプス登山口の表示【10:49】
階段はここに書かれてあるように、全部で234段。
途中の見晴らしは、かなりよかっただけに・・・。
気を取り直して下山して登山口まで戻り、改めて周囲を
探すと、盛福寺の駐車場の奥に、道路からは見づらいが、
何やら道があるのに気付いた。私道のようだ。
(13)私道入口【11:11】
この道を進むと、すぐに田浦隧道の入口の横に出られた。
(14)田浦隧道入口【11:14】
(15)盛福寺山門【11:16】
(16)盛福寺石仏群【11:17】
六地蔵と石仏が46体もならび、お花やお菓子が供えら
れている。
その横には、貞享4年(1687)の庚申供養塔がある。
(17)旧海軍の標柱【11:20】
盛福寺の前を通る道は、横須賀水道道(すいどうみち)
である。これは、旧海軍が1918年に敷設したもので、
中津川の水を取水して逸見(へみ)浄水場まで流す給水
配管敷設道路。
軍艦の製造が盛んになると、走水からの水道だけでは不足
したために作られた。
それを示す標柱が道沿いにいくつも見られる。
(18)馬頭観音石仏群【11:27】
(19)御嶽稲荷神社【11:32】
稲荷神社は日本各地に存在しており、分霊された神社が
全国に約3万社存在するそうで、これは、次点である
八幡神社の1万5000社を大きく上回る。
ということで、特に特別ではないのだが、この場所で
「御嶽」と付いているのはなぜなのか、ちょっと気に
なったので後日調べたが、今のところ不明。
(20)庚申塔石仏群【11:32】
(21)長善寺【11:38】
(22)街道風景【11:43】
(23)街道風景【11:47】
(24)十三峠道標【11:47】
(25)開拓記念碑【12:06】
十三峠開拓農業協同組合により昭和32年に建てられた。
戦後の食糧不足の対策として、自作農創設特別措置事業法
が公布され、農地開拓の一環として県の指導で開拓事業が
行われた時の記念碑。
こんな山奥まで農地開拓が行われたのは意外だった。
(26)街道風景【12:12】
(27)塚山公園案内図【12:13】
駐車場の奥にあったコンテナーのような防災収納庫の壁に
掲げられていた。
この上が「十三峠公園」のはずだが、周囲には何の標識
もない。
ここ十三峠は、浦賀道で最大の難所と言われていたそうだ。
確かに浦賀道の今まで通ってきた山道より標高は一段高い
印象はある。
今は車も通れる舗装路だが、昔はもっと狭い山道だったに
違いない。
十三峠の名の由来には、保土ヶ谷より13番目の峠という
説や、峠に祀られた十三仏(どこにある?)にちなむと
いう説などがあるそうだ。
仏教での十三回忌や十三詣りという言葉からは、何らか
の宗教的な背景か意図があったようにも思えるのだが?
(28)道標【12:15】
(29)道標【12:18】
(30)三浦按針夫妻墓【12:21】
(31)塚山公園【12:24】
(32)道標【12:33】
(33)一般道への分岐点【12:43】
写真の階段を下りてきた。
(34)西逸見吉倉隧道【12:44】
横須賀市は市内5カ所に防災トンネルを整備している。
土砂崩れなどの災害時に谷戸地域の孤立を防ぐため。
その一つで、1985年に完成。
川沿いの街道風景
(35)鹿島神社【12:52】
(36)逸見駅への分岐点【12:53】
今回は予定通りここまでで終了とした。
休憩を含めた歩行時間は、3時間42分だった。
但し、途中で間違えて、三浦アルプス登山口からの山道
を歩き回った時間が21分あるので、それを引くと、
実質3時間21分かかったことになる。
途中で見つけたマンホールの蓋の画像を以下に掲載する。
横須賀市
市の木・オオシマザクラ(葉も)に囲まれて中央に市章。
横須賀市
前項と同じオオシマザクラと中央に市章だが、デザインが
異なる。
横須賀市
黄色地に水色の横須賀上下水道イメージキャラクター
「アクアン」と赤いはしご車。
「アクアン」は、横須賀水道90周年記念事業の一環と
して作成され、横須賀の水を守る妖精をイメージして
いるという。
◆旧浦賀道_保土ヶ谷-上大岡 ― 2020年09月24日
2020年9月9日(水)晴れ
享保五年(1720年)、江戸湾防備のために伊豆下田から
浦賀へ奉行所が移されると、江戸と浦賀間の人や馬の
往来のため東西二本の道が作られた。
これが浦賀道(うらがみち)である。
東は旧東海道の保土ヶ谷宿から、西は戸塚宿から浦賀に
至っている。
なお、保土ヶ谷宿から金沢八景までは金沢道(かねさわ
みち)とも呼ばれている。
ちなみに、金沢八景は風光明媚な入り江が続く景勝地と
して、江戸時代から知られていたそうで、この道を通って
多くの人が訪れていたそうだ。
本日は、最初の区間である保土ヶ谷宿から上大岡までを
歩いた。
(1)金沢横丁道標【9:09】
保土ヶ谷駅東口バスターミナルから約400m歩いて
道標に到着。ここが旧東海道からの分岐点。
(2)道標【9:09】
(3)いわな坂の道標【9:10】
名の由来は不明で、漢字で書くと「石難坂」、「石名坂」、
「磐名坂」など諸説あるという。
(4)御所台(ごしょだい)地蔵尊【9:11】
この場所のすぐ近くに、次項の「御所台の井戸」があるの
で、そこから地蔵尊もこう呼ばれているようだ。
御所台(ごしょだい)とは、源頼朝の妻で頼朝の死後には
尼将軍と呼ばれて「執権政治」の基礎をつくり支えた北条
政子のことだという。
しかし、将軍家など貴人の妻に対して用いられた呼称は
「御台所」(みだいどころ)であり、北条政子も普通はそう
呼ばれていたのに、なぜ、この場所に限ってこういう言い方
なのだろう?(単なる誤記がそのまま伝わったか?)
街道脇の坂道には庚申塔が据えられおり、石段を上った高台
にある地蔵堂の中には地蔵尊が安置され、他にも石仏等が
並らんでいた。
この階段は段数は少ないが意外に急坂だった。
(5)御所台(ごしょだい)の井戸【9:13】
説明板には、「鎌倉時代、源頼朝の妻政子がここを通り
かかった時、この井戸の水を汲んで化粧に使用したと伝え
られ、」とあるが、ネット上では次の説も出されていた。
すなわち、
説明板のその下の説明、「保土ヶ谷宿の苅部本陣に将軍が
休息した時、御膳水としてこの井戸の水を使用したと伝え
られるほどの名水だった」ということから、
政子も「咽を潤した」と考えるのが普通では。
(それだと当たり前すぎるので、誰かが脚色した?)
真偽は確認しようもないが、将軍に献上するような名水を
わざわざ化粧に使用したというのは、ちょっと違和感が
あると思うが。
とにかく、「政子の井戸」と呼ばれるようになるのは、
おそらくは観光用に史跡看板が建てられた戦後であろう
とのこと。
(6)街道筋の風景【9:16】
普通の住宅街の中を進む。
(7)北向地蔵尊【9:18】
(8)ゆずの木【9:30】
街道から少し中に入って小高い丘を登ると、りっぱな
エノキが立っている。
これは、人気デュオ・ゆず(横浜市出身)の「からっぽ」
という曲のPVに登場したことから、「ゆずの木」の愛称
で親しまれているもの。
さらに、映画『四月は君の嘘』やドラマなど、多くの作品
のロケ地でもある。
さすがに絵になる展望だった。
(9)獅子頭共用栓(ししがしらきょうようせん)【9:38】
横浜に日本初の近代水道が創設された明治20年当時、
人々は道端に設置された共用栓から水の供給を受けるのが
一般的で、イギリス・グレンフィールド社製の獅子頭共用
栓が横浜市内各所に設置された。
その中の一つ。
(10)井土ヶ谷事件の跡、庚申塔【9:47】
(11)蒔田(まいた)橋【9:51】
蒔田の地名は室町時代からあり、横浜英和学院の敷地には
16世紀に吉良氏の居城、蒔田城があったと考えられている、
とのこと。
(12)街道風景【9:59】
残念ながら、歴史を感じさせるような建物は残っていない。
(13)若宮八幡宮への道標【10:05】
神社自体は、街道から東に少し行ったところにある。
若宮八幡宮は、源頼朝が鶴岡八幡宮境内の若宮八幡宮の
別宮として、建久4年(1193)に創建。大岡川村下大岡村
の鎮守だったとのこと。
ちなみに、周囲の現在の住所は若宮町。
(14)鎌倉街道道標【10:08】
鎌倉街道(かまくらかいどう)は、各地より鎌倉に至る
道路の総称。
鎌倉街道あるいは鎌倉道と呼ばれる道は、かなり広範囲に
数多くあったとみられている。
(15)街道風景【10:24】
(16)庚申塔【10:30】
犬小屋(?)に入れられた庚申塔は初めて見た。
新しそうだが、前に置かれたペットボトルが大きすぎて
よく見えない。
(18)上大岡駅東口【10:35】
今日は予定通りここまでとした。
休憩を含めた歩行時間は、1時間26分だった。
以上
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