◆旧浦賀道_能見台-瀬ケ崎2020年09月06日

2020年5月11日(月)晴れ

(2020年8月7日(火)再訪)

旧浦賀道(うらがみち)は、実は自宅の近くを通っていて、

部分的には何度も歩いている区間も多いのだが、特に浦賀道

と意識して歩いたことはなかった。

今回、改めて全体を通して歩いてみることした。

 

享保五年(1720年)、江戸湾防備のために伊豆下田から浦賀

へ奉行所が移されると、江戸と浦賀間の人や馬の往来のため

東西二本の道が作られた。これが浦賀道(うらがみち)。

東は旧東海道の保土ヶ谷宿から、

西は戸塚宿から浦賀に至っている。

 

なお、保土ヶ谷宿から金沢八景までは金沢道(かねさわみち)

とも呼ばれている。

ちなみに、金沢八景は風光明媚な入り江が続く景勝地として

江戸時代から知られていたそうで、この道を通って多くの人が

訪れていたそうだ。

初日の今日は、自宅から徒歩で移動できる範囲の、能見台

から瀬ケ崎までの区間を歩いた。

(1)能見堂緑地入口【9:50】

(2)分岐点【9:51】

ここから浦賀道になる。

道は六国峠ハイキングコース(横浜金澤散策コース)の一部

となっていて、反対方向(写真左)へ行けば鎌倉まで歩ける。             

(但し昨年(2019年)の台風被害で一部まだ通れない

区間もある。)

 

今はハイキングコースと呼ばれるような山道が、当時の

メインの街道だったということで、江戸時代の人々の

健脚ぶりが想像できる。




(3)舗装路(手前)への出口【9:59】

途中の数十メートルだけ舗装路になっていて民家の横を通る。

それが(3)から(4)の区間。

(4)舗装路(手前)からの再入口【10:00】

この区間はしばらく視界が開ける。

空気が澄んでいれば富士山も見られるが、今日は残念ながら

見られなかった。

(5)能見堂緑地【10:02】


(6)能見堂跡【11:04】

下記の案内に記されているように、ここからの眺望が

すばらしかったので、金沢八景と呼ばれていたとのこと。

 

現在は海岸線からはかなり離れた場所なので、初めて

この話を聞くと驚くが、江戸時代までは、このすぐ傍まで

海岸線が来ていたということ。

案内板にあったその当時の地図を見ると納得する。



上の写真は、享和三年(1803)に、江戸の庶民百数十人

によって建てられた「金沢八景根元地」の石碑。







しばらく行くと下り始める。

(7)石塔群【10:11】

左端の小さな石碑は馬頭観音。その他は不明。

(8)一般道への出口【10:14】

ここに記されている六国峠は、かなり先の鎌倉市にある峠

の名前で、天園(てんえん)とも呼ばれていて、昔は休憩

所があった。(数年前に廃止になった。)

六つの国(武蔵、相模、上総、下総、安房、伊豆)が眺め

られたことが由来とか。

 

しかし、この入口で道案内の表示を出すなら、能見堂跡か

金沢自然公園のほうが自然なようにも思うのだが。

(9)庚申塔【10:17】

(10)君ケ埼稲荷神社【10:24】

道脇の小規模な神社。屋根上の左右に石造のきつねがある。

社の脇には、無縁仏供養塔と不動明王等の石仏がある。

(11)金沢八幡神社【10:33】

金沢文庫の古文書に、700年前の称名寺造営の為の機材を

運ぶ舟が八幡河岸(がし)陸揚げした、とあることから、

この神社も鎌倉時代には存在していたとのこと。

(12)町屋神社【10:36】

(13)庚申塔【10:38】

両脇に狛犬があるものは初めて見た。

本来は別の場所にあったものを、後からセットにして設置

したようにも思えるのだが・・・

(14)龍華寺【10:39】

(15)洲崎神社【10:41】

(16)憲法草創之處碑【10:45】

かつてこの辺りに料亭東屋(あずまや)があり、ここで

伊藤博文を中心に、明治憲法の骨格が練られたとのこと。

(17)「明治憲法起草の地」説明板【10:46】

(18)姫小島水門跡【10:49】

金沢地区の干拓事業をすすめてきた永島家六代目段右衛

門が、金沢入江新田開発のため造ったもの。

天明5年(1785)に完成。

(19)琵琶島神社【10:54】

社自体は小さい。

入口の両脇にシュロの木がある神社は珍しい。

入口にあった福石

全体像が分かりにくいので、Webにあった航空写真を示す。

(20)瀬戸神社【10:56】

(21)泥牛庵(でいぎゅうあん)【11:02】

寺号の由来は、禅語に登場する「泥牛」という言葉で、

泥は煩悩、牛は仏にたとえられ、煩悩にとらわれぬ境地

で悟りを得ることを意味するそうだ。

寺を開基したのは、鎌倉末期の執権・北条高時。

(22) 八景一見之地石碑【11:03】

道を挟んで泥牛庵の向かい側にある。

「八景一見之地飛石」と刻彫されている。

享和二年(1802)年に金龍禅院が建立したものとのこと。

ネットに江戸時代の「武昌金澤八景之圖」が出ていたので

次に示すが、ここに「八景一見之地」の表示が見られる。

(この図は、(19)の琵琶島に掲示されていた説明板にも

記載されている。)

この図には、泥牛庵や琵琶島、(16)に示した東屋も

記されている。

またこの図の左上は海で、能見堂跡での案内板の記述にも

あったが、今よりもかなり広い範囲が海だったことが分かる。

 

これを分かりやすく示した図が金沢区のHPにあったので

次に示すが、これを見ると、ここまで歩いてきた浦賀道は、

実は瀬戸入海に沿っていた道だったことが分かる。

 

<鎌倉時代>

<現在>

(23)金龍禅院【11:04】

昇天山金龍禅院(しょうてんざん きんりゅうぜんいん)

昇天山の山号は、昔この寺で硯の中から龍が昇天した

からと伝えられている。

本堂後ろの丘にあった九覧亭(きゅうらんてい)からの

眺望は金沢随一といわれ、江戸時代から観光地として

大変な賑わいをみせたとのこと。

創建:永徳年間(138184)

(24)上行寺東遺跡(じょうぎょうじ ひがし いせき)

【11:07】

少し急な階段を上る。

街道歩きからはちょっと異質な場所だった。

遺跡といっても穴があるだけなので、この上にどのような

建物があったのか、なかなか想像するのは難しい。

(25)上行寺(じょうぎょうじ)【11:13】

遺構へ上る階段から見える上行寺。

(26)諏訪之橋【11:23】

下を流れるのは侍従川(じじゅうがわ)

歌舞伎などの演目の「小栗判官」のヒロイン・照手姫

(てるてひめ)が、追手に捕まり川に投げ込まれたことを

知った乳母の「侍従」が、それを嘆いてこの川に飛び込ん

だことから、この名前がついたという。

(27)三艘(さんぞう)橋【11:27】

三艘は昔の地名。

唐船が来泊して、称名寺にある一切経、青磁花瓶、香炉、

唐猫等を持って来たので、その着岸したところに三艘の

地名がついたとも。

一説には、その後北条顕時、貞顕のころまで唐船が三

来着したので三艘の地名がついたとも。

(28)庚申塔【11:29】

(29)六浦東交差点【11:36】

本日はここまでとした。

歩行実績は1時間45分だった。

以上

 

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◆旧浦賀道_上大岡-能見台2020年09月13日

2020年9月1日(月)曇り

  

5月11日に、浦賀道の中の、能見台から瀬ケ崎までの

区間を歩いた。

それに続き、少し時期がずれてしまったが、その前

なる上大岡から能見台までの区間を、本日歩いた。


(1)上大岡駅東口(裏口)【9:38】

京急上大岡駅の駅裏にあたる東口を9:38に出発

(2)上大岡駅東口石仏群【9:38】

出てすぐ目の前に石仏群がある。

地蔵尊を中心に馬頭観音塔2基、庚申塔1基、道祖神1基、

及び石段築造碑が立っている。

庚申塔には1684(貞享元)年の銘があるが、これは江戸

時代前期、徳川綱吉将軍の時代。

そんな昔の庚申塔が今も駅前に鎮座している。


(3)青木神社【9:46】

もと、多々久之郷六箇村(久保、最戸、中里、弘明寺、

井土谷)の総社。

天明六年(1786年)の大岡川の大洪水により、大岡川の

流れが変わり、社殿が上大岡側に取り残され、今でも

大久保2丁目は青木神社の社地だけが川を越して残された

と言われているとか。


(4)岡本橋記念碑【9:57】


(5)横浜刑務所【10:01】

刑務所というと高い塀に囲まれた暗いイメージがあるが、

ここは、さしたる威圧感も感じさせずに住宅街に静かに

馴染んでいる。

 

調べると、ここでは毎年11月に「矯正展」が開催され、

そこでは、全国の刑務所で作られた品物を売る店が立ち

並び、さらに、ステージでは何かしら演奏やダンスが

あるとのこと。

ネット掲載の写真を見ると、まるで学園祭のよう。

その期間中のみ刑務所内に入れる施設見学が、かなりの

人気とか。


(6)鰻(うなぎ)井戸【10:10】


(7)街道で見つけたポスター【10:18】

「浦道健一」という人の選挙ポスターを偶然にも発見。

ひょっとして、浦賀道に何か由来のある人か、と思って

調べたら、県議会議員さんで、出身地は長崎県とのこと。

よって、残念ながら浦賀道とはまったく関係なし。

(8)新川橋交差点【10:20】

ここからは大通りを外れ、写真の左側の細い路地を進む

ことになる。

路地の途中の光景



(9)「かねさわ道」説明板【10:30】

浦賀道のうち、保土ヶ谷宿から金沢八景に至るまでの道は

「金沢道(かねさわみち)」とも呼ばれている。

その説明板が、今回の道程の中で二か所あった。

(もう一つは(11)

ちなみに、「金沢街道」というと、金沢八景から朝夷奈

切通を通って鎌倉へ抜ける道とのこと。

ちょっとややこしい。

(以下の三つ目の参考図参照)


金沢道と金沢街道の説明図

(10)馬頭観世音と石塔群【10:38】

かなりの数の石塔群が、普通の墓石といっしょに並んでいた。

この数にはちょっと圧倒される。




(11)かねさわ道案内板【10:40】


一旦大通りに出るが、すぐに、栗木の交差点の手前で再び

わき道に入る。

そのわき道を進むと、そのまま環状3号線のトンネルの

上を通る。

次の写真はそのあたりの道の様子。

環状3号線を渡り切ったところで、階段を上ると、完全に

山中の山道になる。

 

(12)階段【10:48】



(13)庚申塔【10:50】

少し進むとそのまま下りになり、笹下釜利谷道路(ささげ

かまりやどうろ)と並行した、住宅街の中の細い道になる。

 

ここからしばらくは特に史跡は見当たらない。

上中里交差点付近を通ってからは再び上りになり、整備

された住宅街の端を進むことになる。

  

道なりに児童公園の手前で右手に上っていく。

(14)岩船地蔵尊【11:13】

ここから先は、旧道は完全に消滅しているので、住宅街の

中をジグザグに縫うように進んでいき、能見堂緑地入口から

ハイキングコースの途中に合流する。

 (15)能見堂緑地入口【11:42】

(16)「シティー能見台西」の出口への分岐点【11:50】

ここから先は、既に5月11日に歩いているので、本日の

街道歩きはここまでとした。

歩行時間は、途中の休憩も含めて、2時間12分だった。

以上

 

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◆旧浦賀道_瀬ケ崎-逸見2020年09月18日

2020年9月4日(金)晴れ

 5月11日に、能見台から瀬ケ崎までの区間を歩いたが、

それに続いて、瀬ケ崎から逸見(へみ)に至るまでの区間

を本日歩いた。

  

今回のルートの中には、経路が不明確な場所が2か所あり、

ちょっと途中で迷ったこともあったが、何とか踏破できた。


 (1)瀬ケ崎の交差点【9:31】

前回の終了地点である瀬ケ崎の交差点を9:31に出発。

ちなみにここは旧道が国道16号線と合流する地点。

(2)横須賀市との市境【9:35】

数分歩くと横須賀市に入る。

(3)傍示堂(ほうじどう)の石塔群【9:36】

昔、このあたりは天神山脈が東西に連なった険しい場所で、

その尾根道の峠を南北に貫くのが「浦賀道」だった。

  

傍示(榜示)とは杭や石などで境界を示すことで、

ここは、浦郷村(現在の追浜)と六浦荘村(金沢区)の

村境いであり、さらに相模・武蔵の国境でもあった。

  

このため、隣村から悪人や病気が入らぬよう、道祖神と

しての村の守り神として、さらに旅人の安全祈願などで、

古くから五輪塔・地蔵・庚申塔が祀られていたそうだ。

  

ちなみに、ここの五輪塔は鎌倉・室町時代のもので、

四面に梵字が彫られているかなり貴重なものだそうだ。




(4)雷神社(いかづちじんじゃ)【9:39】

正式には「いかづちじんじゃ」とされているが「かみなり

じんじゃ」の呼び方が地元では普通とのこと。

創建は承平元年(931)というからかなり古い。

 

祭られているのは、火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)

で、その名の通り雷神。

雷の猛威に対する畏れや稲妻と共にもたらされる雨の恵み

対する、農耕民族であった古代日本人の信仰から生まれ

た神らしい。

  

ネット情報によると、社名をもじった独自のカクテル

「雷ジンジャー」が、2013年より周辺の飲食店で提供され

ているらしい。(未確認です。)


(5)雷神社旧跡【9:46】

雷神社の旧地で、落雷を受けたという神木のビャクシンが

立ち枯れたまま残っている場所。


街道の風景。静かな住宅街。

(6)良心寺とその門の傍の庚申塔【9:54】

庚申塔には、寛文12年(1672年)に作られたと

彫られてある。



(7)首斬観音(くびきりかんのん)【9:57】

天保年間(1830年~1843年)のころ、全国的に干ばつや

冷害が続いて飢饉が発生し、浦郷村(追浜)でも犯罪が

横行。捕らえられた犯罪者は、この近くの浦郷陣屋で

裁かれて処刑されたそうだ。

(ちなみに、天保8年(1837年)には、天保の飢饉で

苦しむ人々を救おうと、大塩平八郎の乱が起きている。)

  

大正末期に現在の国道16号線の工事の際、頭がい骨

だけが十数個発見され、地元住民が供養碑として石塔を

建てて供養した。

  

下写真中央の首斬観音と彫られた石塔は、昭和三年に

建立されたものだが、左右の石造の銘文には天時天保の

造立とあり、江戸時代からあったものらしい。


街道風景。

線路沿いはかなり細い道になる。

(8)登り口【10:07】

旧浦賀道は今の浦郷隧道(トンネル)の上を通っている

ので、その道を探して、隧道の手前にあった下記の写真の

階段を上ってみたのだが、すぐに行き止まり。

あきらめて下に降りて、隧道の中を通ることにした。

(9)街道風景【10:19】

(10)街道風景【10:29】

京急の線路の脇を進むと住宅街に入り、そこをさらに

進んでいくと、細い階段の道になる。

(11)池の谷戸公園【10:43】

前項のような坂道を登りきると、閑静な住宅街に出る。

この地域一帯を池の谷戸という。

 

ちなみに、谷戸(やと)とは、丘陵地が浸食されて形成

された谷状の地形。

谷(や、やと)・谷津(やつ)・谷地、萢(やち)・

谷那(やな)などとも呼ばれ、主に東日本(関東地方・

東北地方)の丘陵地で多く見られるとのこと。

  

池の谷戸は、大正時代から奥にテニスコートがあったり、

当時の先端をいく職業の写真館や食料・雑貨・米酒・塩

・味噌、郵便局を代行して赤ポストを置いて切手・ハガキ

も販売した商店などもあり、田浦でも進んだ地域であった

ようだ。

  

その中にあったかなり大きな公園が「池の谷戸公園」。

ここで少し休憩。

池の谷戸は宅地開発が進んで整地されているため、旧街

道が残っていない。

とりあえず、田浦山盛福寺を目指して、ジグザグに進む。

事前に調べたところでは、田浦山盛福寺の脇から、田浦山

隧道の出口に出る道があるはずなのだが、それがなかなか

見つけられなかった。

  

そのうちに、次の写真の「三浦アルプス登山口」が出て

きたので、この登山道の途中から本来の街道に出られるか

もしれないと思って、一旦ここを登ったのだが・・・

結論からいうと、この道はまったく旧浦賀道とは無関係。

大幅な回り道をしてしまった。

(通った尾根道は、かなり背の高い雑草が生い茂っていて、

けっこう進むのが大変だっただけに、非常に残念。)

    

(12)三浦アルプス登山口の表示【10:49】

 階段はここに書かれてあるように、全部で234段。

途中の見晴らしは、かなりよかっただけに・・・。

気を取り直して下山して登山口まで戻り、改めて周囲を

探すと、盛福寺の駐車場の奥に、道路からは見づらいが、

何やら道があるのに気付いた。私道のようだ。

  

(13)私道入口【11:11】

この道を進むと、すぐに田浦隧道の入口の横に出られた。

  

(14)田浦隧道入口【11:14】

(15)盛福寺山門【11:16】

(16)盛福寺石仏群【11:17】

六地蔵と石仏が46体もならび、お花やお菓子が供えら

れている。

その横には、貞享4年(1687)の庚申供養塔がある。

(17)旧海軍の標柱【11:20】

盛福寺の前を通る道は、横須賀水道道(すいどうみち)

である。これは、旧海軍が1918年に敷設したもので、

中津川の水を取水して逸見(へみ)浄水場まで流す給水

配管敷設道路。

軍艦の製造が盛んになると、走水からの水道だけでは不足

したために作られた。

それを示す標柱が道沿いにいくつも見られる。

(18)馬頭観音石仏群【11:27】

(19)御嶽稲荷神社【11:32】

稲荷神社は日本各地に存在しており、分霊された神社が

全国に約3万社存在するそうで、これは、次点である

八幡神社の15000社を大きく上回る。

ということで、特に特別ではないのだが、この場所で

「御嶽」と付いているのはなぜなのか、ちょっと気に

なったので後日調べたが、今のところ不明。

(20)庚申塔石仏群【11:32】


(21)長善寺【11:38】

(22)街道風景【11:43】

(23)街道風景【11:47】

(24)十三峠道標【11:47】

(25)開拓記念碑【12:06】

十三峠開拓農業協同組合により昭和32年に建てられた。

戦後の食糧不足の対策として、自作農創設特別措置事業法

が公布され、農地開拓の一環として県の指導で開拓事業が

行われた時の記念碑。

こんな山奥まで農地開拓が行われたのは意外だった。

(26)街道風景【12:12】

(27)塚山公園案内図【12:13】

駐車場の奥にあったコンテナーのような防災収納庫の壁に

掲げられていた。


この上が「十三峠公園」のはずだが、周囲には何の標識

もない。

  

ここ十三峠は、浦賀道で最大の難所と言われていたそうだ。

確かに浦賀道の今まで通ってきた山道より標高は一段高い

印象はある。

今は車も通れる舗装路だが、昔はもっと狭い山道だったに

違いない。

  

十三峠の名の由来には、保土ヶ谷より13番目の峠という

説や、峠に祀られた十三仏(どこにある?)にちなむと

いう説などがあるそうだ。

仏教での十三回忌や十三詣りという言葉からは、何らか

の宗教的な背景か意図があったようにも思えるのだが?

 

(28)道標【12:15】

(29)道標【12:18】

(30)三浦按針夫妻墓【12:21】

(31)塚山公園【12:24】

(32)道標【12:33】

(33)一般道への分岐点【12:43】

写真の階段を下りてきた。

(34)西逸見吉倉隧道【12:44】

横須賀市は市内5カ所に防災トンネルを整備している。

土砂崩れなどの災害時に谷戸地域の孤立を防ぐため。

その一つで、1985年に完成。

川沿いの街道風景

(35)鹿島神社【12:52】

(36)逸見駅への分岐点【12:53】

今回は予定通りここまでで終了とした。

休憩を含めた歩行時間は、3時間42分だった。

但し、途中で間違えて、三浦アルプス登山口からの山道

を歩き回った時間が21分あるので、それを引くと、

実質3時間21分かかったことになる。

 

  

途中で見つけたマンホールの蓋の画像を以下に掲載する。

  

横須賀市

市の木・オオシマザクラ(葉も)に囲まれて中央に市章。

横須賀市

前項と同じオオシマザクラと中央に市章だが、デザインが

異なる。

横須賀市

黄色地に水色の横須賀上下水道イメージキャラクター

「アクアン」と赤いはしご車。

「アクアン」は、横須賀水道90周年記念事業の一環と

して作成され、横須賀の水を守る妖精をイメージして

いるという。

以上

 

 

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◆旧浦賀道_保土ヶ谷-上大岡2020年09月24日

2020年9月9日(水)晴れ

  

享保五年(1720年)、江戸湾防備のために伊豆下田から

浦賀へ奉行所が移されると、江戸と浦賀間の人や馬の

往来のため東西二本の道が作られた。

これが浦賀道(うらがみち)である。

 

東は旧東海道の保土ヶ谷宿から、西は戸塚宿から浦賀に

至っている。

  

なお、保土ヶ谷宿から金沢八景までは金沢道(かねさわ

みち)とも呼ばれている。

 

ちなみに、金沢八景は風光明媚な入り江が続く景勝地と

して、江戸時代から知られていたそうで、この道を通って

多くの人が訪れていたそうだ。

本日は、最初の区間である保土ヶ谷宿から上大岡までを

歩いた。

 (1)金沢横丁道標【9:09】

保土ヶ谷駅東口バスターミナルから約400m歩いて

道標に到着。ここが旧東海道からの分岐点。




(2)道標【9:09】


(3)いわな坂の道標【9:10】

名の由来は不明で、漢字で書くと「石難坂」、「石名坂」、

「磐名坂」など諸説あるという。

(4)御所台(ごしょだい)地蔵尊【9:11】

この場所のすぐ近くに、次項の「御所台の井戸」があるの

で、そこから地蔵尊もこう呼ばれているようだ。

  

御所台(ごしょだい)とは、源頼朝の妻で頼朝の死後には

尼将軍と呼ばれて「執権政治」の基礎をつくり支えた北条

政子のことだという。

  

しかし、将軍家など貴人の妻に対して用いられた呼称は

「御台所」(みだいどころ)であり、北条政子も普通はそう

呼ばれていたのに、なぜ、この場所に限ってこういう言い方

なのだろう?(単なる誤記がそのまま伝わったか?)

  

街道脇の坂道には庚申塔が据えられおり、石段を上った高台

にある地蔵堂の中には地蔵尊が安置され、他にも石仏等が

並らんでいた。

  

この階段は段数は少ないが意外に急坂だった。



(5)御所台(ごしょだい)の井戸【9:13】

説明板には、「鎌倉時代、源頼朝の妻政子がここを通り

かかった時、この井戸の水を汲んで化粧に使用したと伝え

られ、」とあるが、ネット上では次の説も出されていた。

すなわち、

説明板のその下の説明、「保土ヶ谷宿の苅部本陣に将軍が

休息した時、御膳水としてこの井戸の水を使用したと伝え

られるほどの名水だった」ということから、

政子も「咽を潤した」と考えるのが普通では

(それだと当たり前すぎるので、誰かが脚色した?)

  

真偽は確認しようもないが、将軍に献上するような名水を

わざわざ化粧に使用したというのは、ちょっと違和感が

あると思うが。

  

とにかく、「政子の井戸」と呼ばれるようになるのは、

おそらくは観光用に史跡看板が建てられた戦後であろう

とのこと。



(6)街道筋の風景【9:16】

普通の住宅街の中を進む。

(7)北向地蔵尊【9:18】




(8)ゆずの木【9:30】

街道から少し中に入って小高い丘を登ると、りっぱな

エノキが立っている。

これは、人気デュオ・ゆず(横浜市出身)の「からっぽ」

という曲のPVに登場したことから、「ゆずの木」の愛称

で親しまれているもの。

さらに、映画『四月は君の嘘』やドラマなど、多くの作品

のロケ地でもある。

  

さすがに絵になる展望だった。


(9)獅子頭共用栓(ししがしらきょうようせん)【9:38】

横浜に日本初の近代水道が創設された明治20年当時、

人々は道端に設置された共用栓から水の供給を受けるのが

一般的で、イギリス・グレンフィールド社製の獅子頭共用

栓が横浜市内各所に設置された。

その中の一つ。



(10)井土ヶ谷事件の跡、庚申塔【9:47】




(11)蒔田(まいた)橋【9:51】

蒔田の地名は室町時代からあり、横浜英和学院の敷地には

16世紀に吉良氏の居城、蒔田城があったと考えられている、

とのこと。

(12)街道風景【9:59】

残念ながら、歴史を感じさせるような建物は残っていない。

(13)若宮八幡宮への道標【10:05】

神社自体は、街道から東に少し行ったところにある。

若宮八幡宮は、源頼朝が鶴岡八幡宮境内の若宮八幡宮の

別宮として、建久4年(1193)に創建。大岡川村下大岡村

の鎮守だったとのこと。

ちなみに、周囲の現在の住所は若宮町。

(14)鎌倉街道道標【10:08】

鎌倉街道(かまくらかいどう)は、各地より鎌倉に至る

道路の総称。

鎌倉街道あるいは鎌倉道と呼ばれる道は、かなり広範囲に

数多くあったとみられている。


(15)街道風景【10:24】

(16)庚申塔【10:30】

犬小屋(?)に入れられた庚申塔は初めて見た。

新しそうだが、前に置かれたペットボトルが大きすぎて

よく見えない。

 (17)源為朝の祠【10:32】


(18)上大岡駅東口【10:35】

今日は予定通りここまでとした。

休憩を含めた歩行時間は、1時間26分だった。

 

以上

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