◇新宿富士塚巡り2019年03月29日

2019年3月24日(日)晴れ

  

新宿及び早稲田界隈の五つの富士塚と史跡を回った。

 

西新宿駅(東京メトロ丸の内線)を10:40にスタートし、

牛込柳町駅(都営地下鉄大江戸線)に着いたのが14:05。

昼食タイムを含めて、3時間25分のウォーキングとなった。

 

経路を下記に示す。

①成子富士(成子天神社)【10:50】

神社境内にあった小山を元にして、大正9年に作られた。

高層ビルに囲まれた新宿らしい富士塚。

高さ約12mとのことで、今まで見てきた江戸の富士塚の

中ではかなり大きい方。



頂上の祠

登山道。手すりがあるが、これがないと少し怖い。


成子天神社。富士塚はこの奥にあった。

 成子天神社の力石

②新宿富士(花園神社・芸能浅間神社)【11:25】

新宿駅西口に近く、神社まわりの道路には多くの外国人

(主に中国人?)がいた。

神社境内ではちょうど骨董市が開かれていた。

花園神社境内の端に浅間神社があった。

富士塚はとても小さいが、頂上の祠や登山道(数段の階段)

がある。

芸能浅間神社は昭和3年に建てられ、昭和40年に現在地

に移されたとのことで、富士塚も昭和の築造らしい。

元は8mほどの高さだったとのこと。



脇に藤圭子の歌碑。

全国の浅間神社の中でも、芸能に関わりのある例は珍しい。

江戸の昔から芝居や舞踊の興行に縁が深かったためらしい。

入口には芸能人の名前がずらり。

③西大久保富士(稲荷鬼王神社)【11:40】

昭和5年になって築造され、その後、昭和43年の社殿再建

の際に二分され、参道の左右に分かれている。


小さいながらも、○合目という表示もちゃんとある。

次の写真は裏参道入り口から見たもの。

④東大久保富士(西向天神社 にしむきてんじんしゃ)

【11:50】

天保13年(1842)に自然の台地を利用して築造。

その後、関東大震災後に改修再築している。

上の写真の右手の一段上がったところに児童公園があるが、

その手前に下の写真のように何やら小山が・・・。

しかしこれは富士塚ではない。

上の写真の左奥に、フェンスで囲まれた富士塚(東大久保

富士)があった。


頂上に祠は見えず、「日之尊」と書かれた石碑があり、

登山道も整備されている。実際に登れないのが残念。

 

これだけ見ると、そんなに大きくないが、台地の上に作ら

れているので、下からだと次の写真のように見える。

神社境内には藤圭子の歌碑もあった。

このあと、明治通り(305号線)を早稲田方向に進み、

⑤富塚古墳と⑥高田富士を巡った。

   

この両者の関係を調べた結果が以下の通り。

1.江戸時代まではこの一帯(早稲田)は「戸塚村」の

  一部であった。

2.「戸塚」の地名の由来は、水稲荷神社(宝泉寺)の

  敷地内に「富塚」という塚(古墳)があったためで、

  その後「富」を「戸」にした。

 (古来この周辺に古塚が多くあり、これを「十塚」と

 呼んだのが「戸塚」になったとする説もある。)

3.「富塚」は弥生時代に作られた前方後円墳。

  (円墳との説もあり。)

4.「高田富士」は、安永8年(1779)に富士信仰の

  行者である高田藤四郎により作られたもの。

  その際、前方後円墳の「富塚」を改変して築造した。

5.「高田富士」は、江戸市中で最古、最大の富士塚。

6.本来あった場所は、昭和40年(1965)に早稲田

  大学校域拡張工事により買収され、それにより水稲荷

  神社が甘水園内に移転したので、その際に高田富士も

  現在の場所に移設された。

   

結局、富塚古墳を改変して高田富士が作られたということ。

しかし、そうすると・・・何で、富塚古墳と高田富士が、

今は別々の場所にあるのか、よく分からない。

  

   

⑤富塚古墳【12:34】

マンションとテニス場の間の道を入っていくと水稲荷神社

があった。

神社の左奥にあった富塚古墳



隣の甘泉園(かんせんえん)公園に行く。

早桜が見事に満開だった。


公園の案内図には「高田富士」の記載は一切ないので、

中に入ってしばらく探した。

すると、一番奥の、公園に隣接する民家の敷地の中に

ひっそりと富士塚があった。

 

⑥高田富士【12:40】

ようやく見つけた高田富士が以下の写真。

非常に分かりづらいが、その次の拡大写真で、登山道が

少し分かると思う。


周囲は柵と建物に完全に囲まれていてまったく近寄れ

なかった。

建物の陰から何とか撮った写真は以下のようなものだけ。

ただ、高田富士という看板が立っていたのは何とか確認

出来た。

別のアングルから。頂上部のみ見えている。

このように完全に外からは遮断された状態で、中に入れ

ないどころか、一部を見ることすらままならず、非常に

残念だった。

年に一度、海の日とその前日にのみ登拝が許されている

らしいので、その時に来てみるしかないようだ。

  

高田富士は江戸市中で最古、最大の富士塚で、広重も描

いた名所だったということで、かなり価値ある史跡だと

思う。外からもう少し見られるようにして欲しいと思う。

  

次の写真はネットにあった昔の高田富士。

  

⑦堀部安兵衛の墓【13:00】

高田富士のすぐ横にあった。


⑧山鹿素行墓【13:28】

⑨漱石公園【13:33】

入口にあった道草庵

 漱石の胸像

猫塚。漱石の没後、遺族が家で飼っていた犬、猫、小鳥の

供養のために建てたもの。


漱石山房記念館のブックカフェ。猫のオブジェがおしゃれ。


⑩関孝和の墓【13:46】

一般墓地の中の一番奥にあった。


⑪試衛館跡【14:00】


ビルの合間にあったので、場所が分かりにくく少し迷った。

しかし、この表示柱だけしかない、というのはいささか

寂しい。

   

新撰組というと、日野など江戸郊外出身者の集まりだと

思っていたので、当然に試衛館もその近くにあったと

思い込んでいた。

こんな街中にあったのは意外だった。

   

   

 今回廻った5つの富士塚のうち、3つが大正や昭和に築造

されたものだった。

富士塚は江戸時代だけのものだと今まで思い込んでいたが、

昭和になってからも作られていたということで、富士山

信仰が長く根強く残っていたことを再認識させられた。






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