◆旧浦賀道_鎌倉-大船 ― 2021年06月02日
2021年05月30日(日)晴れ
西浦賀道の鎌倉から大船の区間を歩いた。
(1) 蛭子神社【9:10】
前回の終了地点からスタート。

(2) 辻説法跡【9:12】

(3)若宮大路幕府旧跡【9:17】
鎌倉幕府の所在地は3か所ある。
頼朝が開いた「大倉幕府」(1180-1225)
四代将軍藤原頼経が執務した「宇都宮辻子(うつのみや
ずし)幕府」(1225-1236)、
藤原頼経から最後の9代将軍守邦親王まで97年間執政が
行われた「若宮大路幕府」(1236-1333)の3つ。
ここはその最後の幕府の跡。
しかしながら、今は、住宅街の中の細い路地の一角にこの
碑があるだけ。
北条時宗が元寇に立ち向かう評定を開いたのもこの場所と
いうことだが、石碑以外に何も史跡はない。

(4)土佐坊昌俊(とさぼうまさとし)邸址【9:19】
土佐坊昌俊は源頼朝に仕えた武将。
1185年(文治元年)10月17日、頼朝の命により、
京にいる源義経の邸に夜襲をかけたが、事前に襲撃を察知
していた義経に逆に捕らえられる。
この襲撃は、義経を挑発して頼朝や幕府に逆らったという
決定的な事実を作るためだったと言われており、失敗すべく
考えられたものだったが、昌俊はそれを知っていて、悲壮
な覚悟でこの役を引き受けたという。
『義経記』では、義経は捕らえた昌俊を鎌倉へ返そうと
するが、昌俊は死を願い出て、駿河清重に討たれたと
されている。
襲撃を受けた翌日、義経が後白河法皇より頼朝追討の宣旨
を受けると、10月24日、頼朝は直ちに義経討伐を命令
している。
兄弟げんかの政変に、自分の命まで懸けたということに、
現代との価値観の相違だけでは済まされない、何か苦い
虚しさを感じてしまうのだが。

(5) 北條執権邸(ほうじょうしっけんてい)旧蹟【9:20】

碑文の詳細がネットにあったので、以下に示す。
「昔この場所に、北条氏の小町亭がありました。
北条義時(よしとき)以後代々の執権(将軍代理職)はたいてい
ここに住みました。
あの北条高時が、朝に夕に宴会をして、ときには田楽法師に
対して、列席している重臣と共に、 ひたたれや袴(はかま)を
投げ与えて褒美(ほうび)の山を築いたというのもこの場所です。
1333年に新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉に攻め入った時、
戦火で焼けて灰になってしまいました。
現在の宝戒(ほうかい)寺は、 1335年に足利尊氏が建てたもの
です。この寺は高時一族の恨みを鎮めるために、北条氏の
菩提寺であった東勝寺を、この屋敷跡に建てて名前を変えた
ものであります。
(6)宝戒寺【9:20】


(7)鶴岡八幡宮【9:23】
言うまでもなく、鎌倉の代表的な史跡で観光地。
1063年(康平6年)に、源頼朝の先祖源頼義が「源氏の
氏神」である京都の石清水八幡宮を由比郷鶴岡に勧請したの
がその始まり。
鎌倉幕府滅亡後も「武門の神」として足利氏、後北条氏、
豊臣氏、徳川氏に崇敬された。
現在の本宮は1818年(文政11年)、江戸幕府十一代将軍
徳川家斉に、若宮は1626年(寛永3年)、二代将軍徳川
秀忠によって修築造営された建物。

(8)鉄ノ井(くろがねのい)【9:25】
鎌倉十井(じっせい)のひとつ。
鎌倉十井は、鎌倉の観光名所とされた良質な水が湧いたり、
伝説が残ったりしている井戸で、江戸時代に『新編鎌倉志』
で選定された。
かつて浄光明寺の前に北条政子が創建した新清水寺があった
が、1258年(正嘉2年)に火事によって焼失。
その火事によってなくなった鉄の観音像が、江戸時代に
なってこの井戸から掘り出されたことから、鉄ノ井と呼ばれ
るようになったそうだ。

(9)青梅聖天社【9:31】

(10)石仏石塔群【9:32】
道祖神と庚申塔があるのは分かったが、その他は雑草が酷く
てよく分からなかった。


(11) 旧巨福呂坂の終点【9:32】
残念ながらここから先は私有地であり、行き止まり。

(12)二十五坊旧蹟【9:39】
鶴岡八幡宮に仕える僧侶(供僧)の住居坊があった場所。
供僧(ぐそう)とは神社で仏事に奉仕する僧。
坊とは供僧の住居のこと。
鎌倉時代にはこの僧侶たちは二十五人と定められ、
二十五坊の名はここから起きた。

(13)巨福呂坂(こぶくろざか)洞門【9:43】
鎌倉七口(鎌倉の出入口にあたる、山や丘などを切り開いて
通した七つの道)のひとつで、小袋坂とも書く。
今の道は明治に入ってから開削が行われたもので、鎌倉時代
に北条泰時が造ったと云われる巨福呂坂は既に消滅。

(14)円応寺(えんのうじ)【9:45】


(15)建長寺【9:48】
臨済宗建長寺派の大本山。
鎌倉時代の建長5年(1253年)の創建で、本尊は地蔵菩薩。
開基(創立者)は鎌倉幕府第五代執権・北条時頼。


(16)第六天社【9:50】
第六天社は建長寺の四方鎮守の一つで、南の方角の守護。
江戸初期には建てられたと考えられるそうだ。
写真のように、常時門扉が閉じられていて、例大祭と元旦の
2回だけ、合計で6時間位のみ、開けられるそうだ。
ちなみに、第六天とは仏教でいう「他化自在天」のことで、
魔王のごとき力を持つといわれ、神道では第六番目の神と
されているもの。

(17)甘露の井【9:57】
鎌倉十井(かまくらじっせい)の一つ。
鎌倉十井は、良質な水が湧いたり伝説が残ったりしている
井戸で、江戸時代に『新編鎌倉志』で選定された。
甘露の井は水が蜜のように甘く、「不老不死」の水といわれ
ていたが、現在は道路工事の影響で水の出が悪くなり、飲み
水としては適さないとのこと。



(18)浄智寺【9:58】


(19)東慶寺【10:08】

2005年に発売された「さだまさし」の歌「縁切寺」で
有名になった。入口前に次のような碑もあった。

(20)十王堂橋【10:15】
昔この近くに十王堂があったのでこの名が付いたという。

(21)鎌倉小坂郵便局【10:18】
鎌倉の風景に溶け込んだ、前庭が印象的な建物。
赤い昭和のポストがアクセント。
後日調べたら、入口付近の池に金魚が泳いでいて、この池は
円覚寺の裏山からの水が流れているそうだ。
(残念ながら、気付かずに見落としてしまった。)

(22)観音道標【10:25】

(23)せゐ志く橋碑【10:25】
今の橋名は「水堰(すいせき)橋」
鎌倉に駆け付けた武士達はここで勢揃いして隊列を整えたが、
その「勢揃い」が訛って「せいしく」に。さらに訛って
「すいせき=水堰」になったと、ネットに出ていたが・・・?

(24)成福寺(じょうふくじ)【10:28】
北条泰時の子、泰次により開かれた。
鎌倉唯一の浄土真宗の寺院。
小田原北条氏が、平地に建つ浄土真宗の寺院を反対勢力の
拠点になるとして嫌い、三浦や武蔵など周辺に移したため
というのが通説。
また、俳優の笠智衆さんが眠る場所でもある。


(25)離山(はなれやま)富士見地蔵尊【10:35】
旧鎌倉中ノ道沿いには、かつては、腰山、長山、地蔵山と
いう樹木の無い3つの山があり、それぞれが一つずつの独立
した山になっていたため、「離(はなれ)山」と呼ばれて
いたそうで、離山の地蔵尊と呼ばれていたとか。
ちなみに富士見は地名。
眼病に良いと伝わっているが、昔、蜂に目を刺されたカラ
スがこのお地蔵様のおかげですぐに治ったという伝説が
いわれのようだ。


(26) 大船駅方面交差点【10:45】
今回はここまでで終了とした。

今日の浦賀道の歩行時間は、合計1時間35分だった。
以上
<全体のメインメニューは下記をクリック>
<https://sites.google.com/view/slowly-walker>
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://slowly-walker.asablo.jp/blog/2021/06/02/9383798/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。