◆旧浦賀道_能見台-瀬ケ崎2020年09月06日

2020年5月11日(月)晴れ

(2020年8月7日(火)再訪)

旧浦賀道(うらがみち)は、実は自宅の近くを通っていて、

部分的には何度も歩いている区間も多いのだが、特に浦賀道

と意識して歩いたことはなかった。

今回、改めて全体を通して歩いてみることした。

 

享保五年(1720年)、江戸湾防備のために伊豆下田から浦賀

へ奉行所が移されると、江戸と浦賀間の人や馬の往来のため

東西二本の道が作られた。これが浦賀道(うらがみち)。

東は旧東海道の保土ヶ谷宿から、

西は戸塚宿から浦賀に至っている。

 

なお、保土ヶ谷宿から金沢八景までは金沢道(かねさわみち)

とも呼ばれている。

ちなみに、金沢八景は風光明媚な入り江が続く景勝地として

江戸時代から知られていたそうで、この道を通って多くの人が

訪れていたそうだ。

初日の今日は、自宅から徒歩で移動できる範囲の、能見台

から瀬ケ崎までの区間を歩いた。

(1)能見堂緑地入口【9:50】

(2)分岐点【9:51】

ここから浦賀道になる。

道は六国峠ハイキングコース(横浜金澤散策コース)の一部

となっていて、反対方向(写真左)へ行けば鎌倉まで歩ける。             

(但し昨年(2019年)の台風被害で一部まだ通れない

区間もある。)

 

今はハイキングコースと呼ばれるような山道が、当時の

メインの街道だったということで、江戸時代の人々の

健脚ぶりが想像できる。




(3)舗装路(手前)への出口【9:59】

途中の数十メートルだけ舗装路になっていて民家の横を通る。

それが(3)から(4)の区間。

(4)舗装路(手前)からの再入口【10:00】

この区間はしばらく視界が開ける。

空気が澄んでいれば富士山も見られるが、今日は残念ながら

見られなかった。

(5)能見堂緑地【10:02】


(6)能見堂跡【11:04】

下記の案内に記されているように、ここからの眺望が

すばらしかったので、金沢八景と呼ばれていたとのこと。

 

現在は海岸線からはかなり離れた場所なので、初めて

この話を聞くと驚くが、江戸時代までは、このすぐ傍まで

海岸線が来ていたということ。

案内板にあったその当時の地図を見ると納得する。



上の写真は、享和三年(1803)に、江戸の庶民百数十人

によって建てられた「金沢八景根元地」の石碑。







しばらく行くと下り始める。

(7)石塔群【10:11】

左端の小さな石碑は馬頭観音。その他は不明。

(8)一般道への出口【10:14】

ここに記されている六国峠は、かなり先の鎌倉市にある峠

の名前で、天園(てんえん)とも呼ばれていて、昔は休憩

所があった。(数年前に廃止になった。)

六つの国(武蔵、相模、上総、下総、安房、伊豆)が眺め

られたことが由来とか。

 

しかし、この入口で道案内の表示を出すなら、能見堂跡か

金沢自然公園のほうが自然なようにも思うのだが。

(9)庚申塔【10:17】

(10)君ケ埼稲荷神社【10:24】

道脇の小規模な神社。屋根上の左右に石造のきつねがある。

社の脇には、無縁仏供養塔と不動明王等の石仏がある。

(11)金沢八幡神社【10:33】

金沢文庫の古文書に、700年前の称名寺造営の為の機材を

運ぶ舟が八幡河岸(がし)陸揚げした、とあることから、

この神社も鎌倉時代には存在していたとのこと。

(12)町屋神社【10:36】

(13)庚申塔【10:38】

両脇に狛犬があるものは初めて見た。

本来は別の場所にあったものを、後からセットにして設置

したようにも思えるのだが・・・

(14)龍華寺【10:39】

(15)洲崎神社【10:41】

(16)憲法草創之處碑【10:45】

かつてこの辺りに料亭東屋(あずまや)があり、ここで

伊藤博文を中心に、明治憲法の骨格が練られたとのこと。

(17)「明治憲法起草の地」説明板【10:46】

(18)姫小島水門跡【10:49】

金沢地区の干拓事業をすすめてきた永島家六代目段右衛

門が、金沢入江新田開発のため造ったもの。

天明5年(1785)に完成。

(19)琵琶島神社【10:54】

社自体は小さい。

入口の両脇にシュロの木がある神社は珍しい。

入口にあった福石

全体像が分かりにくいので、Webにあった航空写真を示す。

(20)瀬戸神社【10:56】

(21)泥牛庵(でいぎゅうあん)【11:02】

寺号の由来は、禅語に登場する「泥牛」という言葉で、

泥は煩悩、牛は仏にたとえられ、煩悩にとらわれぬ境地

で悟りを得ることを意味するそうだ。

寺を開基したのは、鎌倉末期の執権・北条高時。

(22) 八景一見之地石碑【11:03】

道を挟んで泥牛庵の向かい側にある。

「八景一見之地飛石」と刻彫されている。

享和二年(1802)年に金龍禅院が建立したものとのこと。

ネットに江戸時代の「武昌金澤八景之圖」が出ていたので

次に示すが、ここに「八景一見之地」の表示が見られる。

(この図は、(19)の琵琶島に掲示されていた説明板にも

記載されている。)

この図には、泥牛庵や琵琶島、(16)に示した東屋も

記されている。

またこの図の左上は海で、能見堂跡での案内板の記述にも

あったが、今よりもかなり広い範囲が海だったことが分かる。

 

これを分かりやすく示した図が金沢区のHPにあったので

次に示すが、これを見ると、ここまで歩いてきた浦賀道は、

実は瀬戸入海に沿っていた道だったことが分かる。

 

<鎌倉時代>

<現在>

(23)金龍禅院【11:04】

昇天山金龍禅院(しょうてんざん きんりゅうぜんいん)

昇天山の山号は、昔この寺で硯の中から龍が昇天した

からと伝えられている。

本堂後ろの丘にあった九覧亭(きゅうらんてい)からの

眺望は金沢随一といわれ、江戸時代から観光地として

大変な賑わいをみせたとのこと。

創建:永徳年間(138184)

(24)上行寺東遺跡(じょうぎょうじ ひがし いせき)

【11:07】

少し急な階段を上る。

街道歩きからはちょっと異質な場所だった。

遺跡といっても穴があるだけなので、この上にどのような

建物があったのか、なかなか想像するのは難しい。

(25)上行寺(じょうぎょうじ)【11:13】

遺構へ上る階段から見える上行寺。

(26)諏訪之橋【11:23】

下を流れるのは侍従川(じじゅうがわ)

歌舞伎などの演目の「小栗判官」のヒロイン・照手姫

(てるてひめ)が、追手に捕まり川に投げ込まれたことを

知った乳母の「侍従」が、それを嘆いてこの川に飛び込ん

だことから、この名前がついたという。

(27)三艘(さんぞう)橋【11:27】

三艘は昔の地名。

唐船が来泊して、称名寺にある一切経、青磁花瓶、香炉、

唐猫等を持って来たので、その着岸したところに三艘の

地名がついたとも。

一説には、その後北条顕時、貞顕のころまで唐船が三

来着したので三艘の地名がついたとも。

(28)庚申塔【11:29】

(29)六浦東交差点【11:36】

本日はここまでとした。

歩行実績は1時間45分だった。

以上

 

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