◆旧中山道_日本橋-戸田 ― 2019年08月10日
2019年7月30日(火)晴れ
本日から旧中山道の歩き旅を開始した。
日本橋から草津宿まで、何とか一年程度で踏破出来たらと
思っている。
言うまでもなく、中山道(なかせんどう)は、江戸幕府が
整備した五街道の一つで、太平洋沿岸経由の東海道に対し、
北回り・内陸経由で江戸と京都を結ぶもの。
距離は東海道よりも40 kmほど長く、宿場も16宿多い。
なお、当初は「中仙道」と称されたが、享保元年(1716)に
「中山道」と書くように正式に改められたとのこと。
本日は最初のスタート。
とにかく、熱中症を避けるために休憩は頻繁に行った。
(1)日本橋【9:40】
高速道路の高架が大きな存在感を示す、見慣れた光景。

(2)日本橋の案内板

(3)東京市道路元標
モニュメントとして残されているもの。
本来は橋の中央にあったが、その位置には、現在は日本国
道路元標の金属板が埋め込まれているとのことで、写真右
下の四角いものが、「日本国道路元標」のレプリカ。

(4)日本橋魚河岸跡
日本橋の魚河岸は、威勢のよい取引が飛交う魚市が立ち
並んだ場所で、江戸で最も活気のある場所の一つだった
そうだ。
魚河岸は関東大震災後に築地に移り、そして現在は豊洲
に移転。

(5)三浦按針屋敷跡【9:47】
徳川家康に外交顧問として仕えたイギリス人航海士、
三浦按針(ウィリアム・アダムス)の屋敷跡。
乗っていた船が難破して大分県に漂着したことから、江戸
に来て家康と謁見し、やがて外交顧問として重用された。
日本名の按針とは水先案内人のこと。
三浦按針は、自分がプロテスタントだったので、南蛮人
(スペイン、ポルトガルなどのカトリック教国出身者)や
カトリック宣教師を嫌い、それが、幕府のキリスト教禁令
に影響を与えたともいわれているそうだ。

(6)江戸桜通りの道標【9:50】
江戸桜通りは、都心にある桜の名所としても知られて
いるが、2005年に中央区によって制定された名称。
したがって、旧中山道とは無関係。

(7)長崎屋跡【9:54】
江戸時代、ここに長崎屋という薬種屋があり、長崎に
駐在したオランダ商館長の、江戸参府(将軍に拝謁して
貿易の礼を述べ、献上物を贈った行事)時における定宿
だった。
参府には、商館長の他に通訳や医師なども同行し、江戸
における外国文化の交流の場だったとのこと。


(8)夜半亭-与謝野蕪村居住地跡【9:56】
夜半亭は、俳諧師早野巴人(はじん)の庵。
若き与謝野蕪村が内弟子として居住して修行していた。

(9)石町(こくちょう)時の鐘
-鐘撞堂(かねつきどう)跡【9:56】
江戸時代に時刻を江戸市民に知らせた鐘。
最初江戸城に置かれていたが、その後、1626年に今の
日本橋本町四丁目に移し、鐘撞堂が建てられた。
現在の時の鐘は1711年に作られた物とのこと。

(10)今川橋跡【9:59】
江戸城の外堀(平川)から神田川に入り隅田川に通じて
いた運河は、神田堀、銀堀(しろがねぼり)八丁堀、又は
後に竜閑川と呼ばれるようになったが、江戸市中の運搬
手段としての役割は極めて大きかったとのこと。
その川にこの地で架けられた橋が今川橋で、当時の名主、
今川善右衛門の姓をとって名付けられたそうだ。
昔、東海道以外の街道を旅する時は、日本橋を発ち初めて
渡るのが、この今川橋であった。


(11)万世橋(まんせいばし)【10:10】
明治時代に作られた橋なので、旧中山道とは無関係。
江戸時代、南側の神田須田町側には、筋違門(すじかいもん)
<(13)参照>があり、明治時代にその門を壊して東京最初の
石橋「万代橋 (よろずよばし) 」を架橋。
1930年コンクリート橋にかけかえた時に「万世橋」と名づけ、
のちに「まんせいばし」と呼ぶようになった。とのこと。

(12)神田祭りの説明板【10:17】

(13)御成道(おなりみち)筋違門跡(すじかいもんあと)
説明板【10:17】

(14)昌平橋(しょうへいばし)【10:18】
最初に橋が架設されたのは寛永年間(1624年 - 1645年)。
「一口橋」や「芋洗橋」(いずれも「いもあらいばし」
と読む)と称した。
1691年(元禄4年)に徳川綱吉が湯島聖堂を建設した際に、
孔子生誕の地である昌平郷にちなんで昌平橋と命名された。

(15)神田明神【10:25】
正式名称「神田神社」。神田祭を行う神社として知られる。
神田、日本橋(日本橋川以北)、秋葉原、大手町、丸の内、
旧神田市場・築地魚市場など108の町会の総氏神。

(16)湯島聖堂【10:27】
元禄時代に、5代将軍徳川綱吉によって建てられた孔子廟
(こうしびょう)。
孔子廟とは、中国、春秋時代の思想家、儒教の創始者で
ある孔子を祀っている霊廟(霊を祀る建物)。
寛政9年(1797)に敷地を拡げて「昌平坂学問所」を開設し、
官立の大学として、江戸時代の文教センターの役割を果
たしたとのこと。
上野にある湯島天神(湯島天満宮)とは別ものだが、
ともに、合格祈願の参拝に多くの受験生が訪れる。




(17)かねやす【10:46】
京都で口中医(歯医者)をしていた兼康祐悦(かねやす
ゆうえつ)が、江戸で元禄年間に歯磨き粉である「乳香散」
を製造販売したところ、大いに人気を呼び、それをきっかけ
にして小間物店「兼康」を開業。
「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」の川柳で有名。
写真の通り、現在はテナントビル。

(18)旧町名案内「本郷」【10:47】
これによると、湯島郷の本郷(湯島の内で中心の地)と
いうことで本郷になったとか。

(19)赤門【10:51】
徳川家斉の娘溶姫が前田家に嫁したとき造られ,文政10年
(1827)に完成。朱漆塗なのでこの名がある。
東京大学が前田邸跡に造られたのでその管理となり,また
東京大学の別称となった。

(20)赤門から続く街並み【10:52】

(21)旧町名案内「森川」【10:58】
ここは、江戸時代は森川宿と称する立(て)場(建場)
だったそうだ。
立て場は、宿場と宿場の間で、人足が駕籠や馬を止めて
休息した所。さらに大きくなるのと、「間の宿」(あい
のしゅく)と称される。

(22)追分一里塚跡
中山道最初の一里塚があったところで、日光御成道(旧
岩槻街道)との分岐点。
掲示板のみで、昔の面影を留めるものは何もない。

駒込宿の名があったと書かれているが、立て場?
後日調べたが不明。

(24)徳川慶喜巣鴨屋敷跡地【11:42】

(25)「旧中山道はタネ屋街道」説明板【12:13】
旅人の中には、弁当を食べるために街道沿いの農家の縁側
を使わせてもらう人もいて、その時に見慣れない野菜を見
かけると、そのタネを欲しがるので、やがて農家の副業で
野菜のタネを販売するようになったとのこと。

(26)眞性寺(江戸六地蔵尊)【12:13】


(27)巣鴨地蔵通商店街入口【12:14】

(28)とげぬき地蔵尊高岩寺(こうがんじ)【12:17】
厄除(よ)け・招福の地蔵として信仰されている。
慶長元年(1596年)に江戸湯島にて開かれ、巣鴨には
明治24年(1891年)に移転とのことで、旧中山道を旅人が
歩いていた頃には、ここにはなかった。


(29)巣鴨地蔵通りの街角【12:18】

(30)すがも史跡まっぷ【12:21】

(31)中山道待夢(巣鴨地域文化創造館)【11:36】
瓦屋根の門とカラクリ時計が出迎える地域の文化交流スポ
ットで、観光客の「休憩所」として活用されている・・
とのことだが、写真のように入口ゲートが閉められていて、
とても入りづらい雰囲気。


(32)巣鴨庚申塚堂・猿田彦大神【12:26】
庚申(こうしん)信仰がよく分からないので調べたら、
中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教
特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、さらに日本の
民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合
信仰、とのこと。
日本的な、ありがたそうなものは何でも受け入れる、と
いう事なのでしょうね。
この巣鴨庚申堂は、明治になってから、さらに猿田彦大神
(日本神話に登場する神)も合祀されたとのこと。
江戸時代には巣鴨庚申堂のみだったことになる。
ここは旧中山道と旧王子道(現・折戸通り)が交差しており、
板橋宿に至る途中の立て場として、賑わったという。



次の写真の顕彰碑に記された榎本留吉氏は、巣鴨で幕末
から続く種苗問屋、榎本留吉商店(現・東京種苗株式会社)
の店主で、付近の町会長だったとのこと。

旧中山道の表示がある。

(34)板橋駅前の平尾宿の垂れ幕【12:49】
板橋宿は、三つの宿場の総称であり、上方側(京側)から
上宿(かみしゅく。現在の本町)、仲宿(なかしゅく、
なかじゅく、中宿とも。現在の仲宿)、平尾宿(ひらお
しゅく、下宿〈しもしゅく〉とも。現在の板橋)があった。

(35)板橋駅前の旧中山道の道路標識【12:50】

(36)板橋宿のゲート(?)【13:01】
ちなみに、右上に見えるウサギは、街のシンボルキャラ
クター、Lapin(ラパン)と Happy(ハッピー)で、
合わせて『ラッピー』というらしい。
(しかし、なぜウサギなのかなあ?)

(37)案内板【13:03】

(38)如意山観明寺【13:03】
創建は暦応元年(1338年)とされ、正観世音菩薩を祀って
ある寺。
明治六年に、千葉の成田山新勝寺から不動尊の分身を勧請
(かんじょう:神仏の分身・分霊を他の地に移して祭る)
してから、出世不動と呼ばれて親しまれた、ということで、
この通りの名称も不動通りになったとのこと。
ちなみに、境内には稲荷神社も鎮座している。


(39)庚申塔【13:03】

(40)板橋宿平尾脇本陣豊田家【13:15】


(41)観光案内板【13:17】

(42)中山道 板橋宿 不動通り商店街の垂れ幕のある街灯
【13:19】
下には、「ラッピー フェスティバル」の文字も。

(43)仲宿の入口ゲート【13:20】

(44)高野長英ゆかりの地(旧水村長民宅)【13:42】
現在は中華料理屋。


(45)和菓子屋新月堂【13:43】
この商店街の中で、唯一と言えるほどの、旧街道風の粋な
建物だが、創業が昭和11年なので旧中山道とは関係ない。
区の由来でもある「板の橋」をかたどった「板橋最中」が
代表銘菓とか。.

(46)板橋宿本陣跡(飯田新左衛門家)【13:43】


(47)板橋宿中宿脇本陣(名主 飯田総本家)【13:44】


旧中山道が石神井川(しゃくじいがわ:荒川水系の支流)
を渡る地点にかけられた橋で、地名の由来にもなった。
江戸時代は太鼓状の板の橋だったそうだ。


(49)縁切榎(えんきりえのき)【13:58】
男女の悪縁を切りたいときに、この榎の樹皮を削ぎとって
煎じ、ひそかに飲ませると、その願いが成就するとされて
いたそうだ。
江戸時代のストーカー対策用の御神木ということか。


(50)氷川神社【14:26】
地元民が板橋宿の鎮守として信仰してきた神社。


(51)志村一里塚【14:39】
国道17号沿いに、ほぼ昔のままに保存されている。
しかも道の両側に完全な形で現存しているのは珍しい。
植えられている榎自身は三代目。
東京都内では西ヶ原一里塚(北区)とともに二ヶ所しか
現存しないとのこと。
また、旧中山道には135ヶ所の一里塚があったが、現存する
のは、この志村一里塚と、垂井一里塚(岐阜県不破郡垂井
町楠田)の二ヶ所のみ。
北側。完全に歩道を占拠している。



されたと思っていたが、後日調べたら、元々、中山道とは
少し離れて設置されていたため、本来の位置のままに保存
されているそうだ。(次図はネットに出ていたその説明図)

(52)保存民家【14:40】
北側の一里塚の隣に保存されていた民家。
今でも使われているらしい。


(53)道路上のレリーフ【15:00】
志村坂上の交差点から、交番横の脇道に入るが、その道路
の歩道上にあったレリーフ。


(54)清水坂の道標【15:02】



新河岸川(しんがしがわ)に掛かる志村橋を渡ってすぐに
右折したあたり。

(56)舟渡の板碑【15:46】


(57)戸田の渡し場【15:55】


(58)戸田橋【15:57】

(59)中山道の案内板【16:03】

(60)水神社【16:07】


(61)戸田の渡し場跡【16:08】


(62)中山道の案内板【16:12】
川岸ミニパークという小さな公園に掲げられていた。


(63)川岸橋【16:15】
欄干には花火大会の模様が。

(64)川岸三丁目の交差点【16:21】

中山道第一回目の歩き旅は、ここまでで終了とした。
休憩を含めての歩行時間は6時間41分だった。
都心からスタートしたこともあってか、いわゆる昔ながら
の古い日本家屋はほとんど見られず、また、松並木もなく、
何となく、街道歩きとしての物足りなさは感じた。
調べてみると、そもそも、日本橋が各主要街道の形式上の
起点ではあったが、実際の旅の起点・終点としては、江戸
四宿と呼ばれる品川宿(東海道)、千住宿(日光街道)、
内藤新宿(甲州街道)、そして、板橋宿(中山道)が機能
していたという。
したがって、本日歩いた、日本橋から板橋宿までの街道が、
他の街道筋の宿場町とは違った顔を持っているのは、当然
と言えば当然なのかもしれない。
次回は、蕨宿、浦和宿、大宮宿と歩く予定である。
本日は、都内と埼玉県戸田市だけだったので、途中でみ
つけたマンホールは以下の二種類のみだった。
東京都の花「ソメイヨシノ」、木「イチョウ」、鳥「ユリ
カモメ」がデザインされたもの。
ソメイヨシノは中央に大きく。そして、花びらの間にイチ
ョウの葉、それらをぐるりと囲むように13羽のユリカモメ
が描かれているとのこと。


戸田ボートコース(戸田漕艇場)の「レガッタ」の風景を
メインに、戸田市の木「モクセイ」、市の花「サクラソウ」
がデザインされている。


以上
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