◆旧東海道_鳴海-宮2019年02月14日

2019年2月5日(火)晴れ

前回の続きとして、鳴海宿から宮宿まで歩いた。

 

宮宿から桑名宿までは、佐屋街道を通る予定なので、

「七里の渡し跡」に行った後で、分岐点まで戻り、

そこから佐屋街道に入って金山駅まで歩いた。

  (1) 前後駅前交差点【8:30】
  前回の終了地点である前後駅前交差点を出発。

(2)戦人塚【8:40】

残念ながら工事中で中に入れなかった。

 

桶狭間の戦いの戦死者約2500人を供養した塚。

現在でも曹源寺の住職が供養を続けているとか。

次の写真はその塚の隣にあった集会所。

さすがに「戦人」という言葉には抵抗があるのか「仙人」

塚となっていた。

ここに入る道の1号線の交差点もその次の写真のように

「仙人塚団地」の表示。


旧東海道に戻って街道を歩く。

趣のある町屋もちらほら見られる。【8:48】

(3)桶狭間古戦場跡【9:00】

中京競馬場前駅のガード下をくぐると、整備された公園に

なっていた。


桶狭間の戦いは、言うまでもなく、2万5千人とも4万人

とも言われる大軍勢を率いて尾張に侵攻した今川義元に対し、

3千人ほどの寡兵だった織田信長が劇的な勝利をした戦い。

  

<2021年3月23日 追記>

この背景について、面白い異説があったので、以下に記す。

 

1.「捨て石」作戦(小島道裕氏)
 この戦いは、そもそもが信長が今川領に侵出し、今川方の城

(鳴海城と大高城)の間に「付け城」(鷲津砦、丸根砦)を

作って攻撃を仕掛けたのが発端だった。 
 よって、今川義元が反撃に出てくるのは、信長の想定内。

 

信長は、味方の鷲津・丸根両砦が、今川方から攻撃されるの

を確認するまで動こうとしなかったのだが、実は最初から

その両砦は見捨てるつもりだった。

 
 つまり、その両砦は最初から「捨て石」としての布石だった。

 

まず今川軍に両砦の攻撃を行なわせ、相手の出方を確かめ、

相手が「引き上げモード」に入った所を狙って襲いかかる、

ということを最初から計算して仕組んだ「奇策」だった。


 2.特攻作戦(竹村公太郎氏)
 元々尾張は狭い湿地地帯で、大軍が駆け巡り会戦を繰り広

げるような土地ではなかった。
 そこで育った信長は、内部抗争的な戦いは行ってきたが、

いわゆる戦国時代の戦い方の経験も知識もなかった。

 

つまり、いわゆる天才的な戦術家などではなかった。

その後の戦においても、史実を調べると勝率は高くなく、

負け戦もかなり多い、とのこと。)

 

今川軍が進軍してきたとき、信長は明確な戦術が描けず、

敗北と死を覚悟した。

そして悩んで出した唯一の打開策が、自らを特攻隊として、

今川義元ただ一人を狙って、敵陣に飛び込んでいくという

無謀な方法だった。

 

そこには、戦国武将としての戦いの経験や常識を持たない

信長の、何万の軍勢だろうが、要は総大将を落とせばそれ

でいいという自然な発想があった。

総大将が自分自身を危険に晒して、敵陣に飛び込んでいく

戦術は、この当時はまったくありえなかった。

 

(総大将同士の一騎打ちとしては、武田信玄と上杉謙信の

川中島の合戦があげられるが、これには明確な証拠がなく、

後世の作り話と言われている。)

 

信長は、戦勝後、義元の居場所を通報した梁田政綱を第一

の功労者としたとの話があり、今川義元の居場所情報こそ

キーだったのだということも言われている。

 

以上、なかなか面白い。

 

昔のやくざ映画で、最後に高倉健が単身で大勢の敵の中に

殴り込みをかけるような、そんな雰囲気のある2.の方が、

日本人のメンタリティには合うのかなあとも思うのだが。





(4)高徳院【9:06】

桶狭間古戦場跡とは道を挟んだところにあり、今川義元の

本陣跡で、その墓もある。

更に進むと、間の宿・有松。

街並みが整備保存されており、江戸時代の情緒が楽しめる。

国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたそうだ。

(5)道標【9:20】

(6)有松山車会館【9:21】

(7)街並みに合わせた建物の信用金庫【9:22】

(8)服部家の土蔵【9:23】

(9)井桁屋(いげたや)【9:23】

寛政2年(1790)創業の有松絞り問屋。

卯建(うだつ)・塗籠造り(ぬりごめづくり)・漆喰虫籠窓

(しっくいむしこまど)など、江戸時代の防火建築と

なっているそうだ。

(10)中舛竹田荘【9:27】



(11)病院と薬局【9:28】


(12)梅屋鶴寿の歌碑【12:59】

梅屋鶴寿は江戸時代末期の狂歌師。

(13)祇園寺【9:31】

門が閉まっていて中から子供の声がしていた。

中に幼稚園?を併設しているようだ。

(14)有松一里塚【9:32】

平成24年に復元されたもの。

道路に埋め込まれたタイル。【9:38】

完全に色褪せてしまっているが。

(15)平部町常夜灯【9:49】





(16)道脇にあった東海道のレリーフ【9:54】

(17)瑞泉寺【9:56】


後日調べたら、屋根の両側に乗っているのは鯱(しゃちほこ)

ではなく、「摩伽羅」という伝説上の生き物で、ガンジス川

に生息するワニとのこと。

(18)高札場【10:02】

街道から少し離れた場所にあった。


(19)鳴海神社【10:04】

高札場の隣で、境内に「鳴海城址之碑」がある。

鳴海城は今川義元の家臣である岡部元信が城主を務めて

いた城で、今川氏の重要拠点になっていた。

当時は海に面した城で、満潮時には城のすぐ下まで潮に

浸かったと伝えられている。

 

「桶狭間の戦い」においては、待機中であった鳴海城兵は

無傷であったが、義元が敗れたため、交渉の結果、信長に

城を明け渡している。

 

天正末期には廃城。別名「根古屋城(ねごやじょう)」。



(20)誓願寺【10:06】

中に芭蕉の供養塔がある。

(21)丹下町常夜灯【10:19】

(22)鉾の木貝塚【10:24】

看板がなければただの雑草が茂った空き地。

想像していたよりも狭かった。

(23)千句塚公園【10:27】

中に千鳥塚がある。

国道1号線との交差点にあったマック【10:40】

昔の旅人も、途中で何度も休憩しながら歩いたに違いない

と思いながらコーヒーブレイク。

カラフルな室内を見まわしているうちに、こうした派手な

色遣いも、案外、浮世絵や歌舞伎などとそんなに変わらない

ように思えてきて、多分、江戸時代の人が突然ここに来たと

しても、そんなには驚かないだろうなあ、と、思ったり・・。

  

(24)笠寺一里塚【11:03】

名古屋市内で現存する一里塚はこの「笠寺一里塚」だけとか。

植えられているのはエノキ。

かつては一対の塚で、道を隔てた南側に大正時代までムクノ

キが植えられていたそうだ。

(25)笠覆寺(りゅうふくじ)【11:10】

(26)笠寺観音【11:12】

 道標【11:31】

(27)道標【11:33】

(28)清水稲荷神社【11:35】

長楽寺の境内の一角にある。

街灯の旧東海道の表示【11:39】

呼続(よびつぎ)は地名(名古屋市南区呼続)。

後日調べたら、よぼよぼ(よびよび)の傾斜地と平地との

つぎ目(継ぎ目)を表す地形地名で、かつて「呼続浜」と

呼ばれた海岸だったそうだ。

(29)道標【11:42】

(30)熊野三社【11:46】

(31)道標【12:03】

ここに記されている「山崎城址・安泰寺」に行こうと思ったが

行き方が分からず、線路の反対側に回ったりして周囲を探した。

(32)石原葬儀店

結局、手前にある「石原葬儀店」(「片平なぎさ」を思い

浮かべる)の隣の細い脇道に入ればいいことが分かった。

そうすると、次の写真のような、線路の上を通る細い高

架橋に出るので、それを渡る。

安泰寺の門【11:59】

前掲の高架橋を渡った突き当りにある。

(33)安泰寺。【11:57】

山崎城は織田信長の命で築かれた。

桶狭間の戦で信長が勝利した後、佐久間信盛が山崎城に

入り、信盛の重臣永田弥左衛門らに守らせた。

 

山崎城廃城後、跡地に桜(南区)にあった宝珠庵を移

して安泰寺としたそうだ。

 

写真に写る門が現在の正門で、線路の反対側の道路から

車が通れる舗装路が続いている。

その後、国道をしばらく進むと、東海道は途中で脇道に

入る。

 

(34)名鉄線の高架下【12:27】

歩道上の四角いポールに東海道の表示。

(35)宮地区案内板【12:28】

(36)裁断橋址【12:29】

大正時代までは精進川が流れ、東海道には裁断橋が架け

られていたが、昭和元年(1926)に川が埋め立てら

橋は撤去されたとのこと。

  

橋の名の由来には、死者を閻魔大王が裁断する場という

説もあるそうだ。

(37)都々逸(どどいつ)発祥の地の石碑【12:30】

七・七・七・五の音数律に従う都々逸(どどいつ)は、

熱田で生まれた神戸節(ごうどぶし)が起源らしい。

神戸節は、宮宿の花街の一つ神戸(ごうど)で生まれた歌。

(38)徳川家康幼時幽居地【12:33】

街道から少し外れるが、駐車場わきにあった。

(39)佐屋街道との分岐点の道標【12:40】

(40)宝勝院【12:45】

(41)七里の渡し場跡【12:48】

ここで、一旦、佐屋街道との分岐点まで戻り、以降はさらに

西に佐屋街道を進む。

 

(42)円福寺【12:56】

最澄が熱田神宮参詣の際に毘沙門天像を安置して始まった

天台宗の寺。

(43)熱田神宮 西門【13:01】

熱田神宮は2016年に一度来ているので、今回は中には

入らなかった。

http://slowly-walker.asablo.jp/blog/2016/10/08/8218073

織田信長が桶狭間の戦いの前にここで戦勝祈願をした。

信長自身は宗教を信じていなかったらしいが、将兵たちの

中には深く信仰する者も多かったので、彼らの士気高揚の

ためにわざわざ立ち寄って、全員で参拝したそうだ。

 

さらに、この時に丘の上など目立つ場所に白い布で作った

旗指物をたくさん立てさせ、今川軍に、信長は熱田方面に

軍勢を展開しており、最前線には向かっていない、と思わ

たとのこと。

  

(44)白鳥御陵の石柱【13:27】

(45)源頼朝出生地【13:28】

(46)熱田神宮第二神門址【13:33】

(47)熱田神宮公園【13:36】

(48)断夫山古墳【13:37】

熱田神宮公園の中にある。

中は立ち入り禁止で外から眺めるだけなので、単なる小山

としか見えず、古墳だという実感が湧かない。

隣にミニチュアがあった。

途中の公園で見つけた遊具【13:45】

児童公園で、ここまでJALを明確に出したものは見たこと

がなかったので、思わず撮ってしまった。

(49)佐屋街道道標【13:57】

金山駅前の金山新橋南交差点【14:00】

本日の予定はここまで。

休憩を含めての歩行時間は合計5時間半だった。

鳴海宿も宮宿も、今までの宿場跡で普通に見られた本陣跡、

脇本時跡、問屋場跡、さらには松並木など、定番の史跡が

まったくなかったことが、ちょっとした驚きだった。

 

宮宿は東海道で一番賑わっていた場所だったのに残念だ。

都市化と戦災が理由なのでやむを得ないが、いささか寂しい。

 

その中で、有松に昔の街並みが非常に綺麗に保存されて

いたのはうれしかった。  

   

以下に、今回見つけたマンホールの蓋を示す。

 

名古屋市上下水道局キャラクター“アメンボ”のデザイン。

アメンボマークは名古屋市の下水道供用開80周年を記念

した 一般公募で決まったそうだ。

 東邦ガスのもの。中央が社章。

丸に八は名古屋市章。周りは金の鯱(しゃちほこ)2匹

上記の黄色バージョン

名古屋城と鯱(しゃちほこ)

 

以上

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◇横浜富士塚巡り2019年02月19日

2019年2月17日(日)曇り時々晴れ

 

昨年、都内の「江戸七富士」と呼ばれる富士塚を回ったが、

<http://slowly-walker.asablo.jp/blog/2018/06/03/8866918>

横浜市内にも富士塚があるので、今回はそちらを回ってみた。

  

最初の西谷駅に着いたのが10時5分。ここからスタート。

最後の北山田駅に着いたのが16時40分。

合計で6時間35分の散策となったが、列車移動は

1時間55分で、徒歩移動と昼食(&迷走時間)で

4時間40分となった。

 

行程実績を次にまとめた。

 

①西谷富士(保土ヶ谷区)

相模鉄道の西谷駅を出て駅前の国道16号(八王子街道)を

東に少し歩き、梅の木交差点を左折すると、すぐに次の写真

のような案内があった。

途中にある鳥居

木々の生茂った富士塚。高さは4m(標高45m)

土を盛って作られたもので、周囲にらせん状に登り道が

あるのでそこを登る。

山頂とそこからの眺め。


その後、西谷駅に戻って横浜駅に行き、そこで市営地下鉄に

乗り換える。

 

②熊野堂富士(神奈川区)

片倉町駅から歩き始める。が、自分が出てきた地下鉄出口の

地図上の位置を勘違いしてしまい、最初は反対方向に進んで

しまった。

すぐにミスに気が付いて駅に戻り歩き直したが、約10分

程度のロス。

 

しばらく歩くと、道沿いに最勝寺の看板があったので、そこ

を入る。


最勝寺の中には入らずに、その前を左折して細い道を少し

進むと、途中に「富士浅間」の表示。

富士塚は土を盛ったもの。

仮設のような手すりがちょっとガッカリだが、そこを登る

と頂上に出る。

頂上からの眺め。高さ18m(標高42m)とのこと。

その後、次の小机富士を目指して歩く。

途中、小机駅前で昼食をとってから歩きを再開。

 

③小机富士(港北区)

小机駅の前の県道12号線を歩き、そこから小机富士への

通路を探した。

何とか行くことができたが、結論から言えば、駅裏(日産

スタジアム側)に出て、そこから行くのがいいようだ。

その行き方を前提に、以下の写真は撮影とは逆に並べかえ

て表示する。

 

小机城址市民の森への案内図。

第三京浜に分断された左側に「富士千元」と書かれている

のが小机富士。

 入口の道標
 小机富士。山の一部なので、少しわかりにくい。 

頂上部。高さ5m。富士仙元大菩薩の石塔がある。

普通は「浅間」なのが、なぜ「千元」なのか、後日調べたが

よく分からなかった。

頂上からの眺め

木が生茂っていて眺望はよくない。

帰りに見えた日産スタジアム。

この後、小机駅から中山駅に。

  

④三保富士(緑区)

中山駅から三保グリーンハイツ(市営住宅)に向かって歩く。

グリーンハイツ前の案内図には「浅間社」という表示で書か

れていた。

(「富士」ないしは「富士塚」という表記はどこにもない。)

駐車場側から見た三保富士塚

児童公園側から見たもの。

頂上の「浅間社」。

りっぱな登山(?)道。

中山駅に戻り、地下鉄で都築ふれあいの丘駅へ。

 

 

⑤池辺富士(都築区)

池辺富士は畑が続く農耕地の中にあったが、その周囲の

道が区画整理中らしく、道路がところどころ通行禁止に

なっていて、近づくのに少し手間取った。

入口に小規模ながら立派な鳥居があった。

頂上にあった祠

頂上からの眺め

登山道

⑥川和富士(都築区)

池辺富士から下りて、川和駅方面に向かって歩くと、川和

富士公園がある。

その一角に川和富士がある。

 

公園内の説明板。普通の石碑とは逆に文字を浮き立たせた

もの。手数は掛かっているようだが、とても読みづらくて

残念な作り。                                           

それによると、元々は現在地より北西にあったが、港北

ニュータウン建設のため、現在の場所に移転・再現された

ものだそうだ。標高は74メートル。

今回訪れた七つの塚の中では一番大きい。



頂上からの展望

りっぱな鉄製のラセン階段もあり、頂上もコンクリート作り

で、完全に公園の見晴台。

 

 

⑦山田富士(都築区)

最後に北山田駅に行く。

ここでとんでもない勘違いをして迷走し、時間を大幅にロス

したが、普通に行けば駅から6分程度のところにあった。

 

入口の階段。

何の標識もないので、ここが富士塚の登り口とは気づかない。

富士塚全景。盛り土で螺旋階段がある。


頂上

頂上からの展望。

手すりも何もないので、いささか撮るのがコワイ。

説明板

山田富士公園

 

前回訪れた江戸七富士は、すべて岩で覆われていたが、

今回訪れたものはどれも土山のままだった。

  

また、神社の境内にあったのは西谷富士のみで、その神社

自体もかなり小規模で、一般的な規模の神社の境内に作ら

れていた江戸富士とはかなり違っていた。

何らかの地域的な事情があったのかもしれない。

 

なお、今回はすべて頂上まで登れたが、それも神社の境内

ではないことからだと思われる。  

 

他の地域にも富士塚は色々あるようなので、今後機会が

出来れば、訪れてみたいと思っている。