◆旧浦賀道_逸見-浦賀2020年10月07日

2020年9月29日(火)曇り

 

東浦賀道の最後の区間である、逸見(横須賀)と浦賀奉行所間を歩いた。


(1)逸見駅からの分岐点【8:48】

前回の終了地点である交差点を8:48に出発。

(2)浄土寺【8:50】

浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺。

鎌倉時代の武将 畠山重忠の建立。

江戸初期に来日し徳川家康の外交顧問として活躍した

英国人航海士ウィリアム・アダムズ(三浦按針)の菩提寺。

 

なお、これまでの街道歩きで、「三浦按針の墓」は

 ◆旧浦賀道_瀬ケ崎-逸見 (30)で、 

「三浦按針屋敷跡」は

 ◆旧中山道_日本橋-戸田 (5)で、

立ち寄っている。


道は一旦国道16号線にでるが、すぐに住宅街の中の細い道に戻る。

そこを数分歩くと、次の写真の階段があらわれる。

 

ここから汐入駅までは、こうした階段でのアップダウンのある山道を進む。車は通れないが、全線舗装してあった。

 

(3)分岐点の階段【8:58】

(4)逸見子育地蔵尊【9:00】



街道風景【9:02】

道標【9:03】

以降、いくつかの道標が途中に設けられていた。

街道からみた風景【9:05】

横須賀の港が見える。

民家の塀に設置された道標【9:06】

道脇に咲いていた彼岸花【9:08】

(5)海軍用地との標識【9:14】

街道風景【9:14】

(6)道標【9:15】

(7)万蔵寺入口道標【9:15】

一旦下に降りて16号線を少し歩き、汐入駅の裏手を通るが、すぐに汐入小学校の横にある階段を上り、再び山中の民家の中の細い道を進む。

(8)道標【9:26】

街道風景【9:26】

(9)道標【9:31】

街道風景

(10)道標&うぐいす坂説明板【9:33】


(11)中里神社参道標識【9:37】

(12)横須賀町道路元標【9:38】

(13)道標【9:46】


(14)聖徳寺【9:51】

(15)地蔵尊【9:53】

(16)永嶋家赤門【9:55】



(17)どうみき坂道標【10:00】

(18)道標【10:04】

街道風景【10:08】

(19)公郷学校跡【10:08】

(20)浄蓮寺【10:08】

室町時代の応永年間(1394年~1427年)に創建された。

幕末には寺子屋が開かれ、明治5年の学制で、前項に示す学舎になったとのこと。


(21)春日神社【10:16】

創建は平安時代と伝えられており、古くは猿島に鎮座。

明治時代に入ると猿島は軍用地となり、東京湾要塞の猿島砲台が築造されたため、明治十七年に現在地の社殿に遷座されたとのこと。

(22)道標【10:19】

(23)砂坂地蔵尊【10:23】


(24)西浦賀道との分岐点【10:32】

(25)浦賀道と大津湊の説明板【10:34】


街道風景【10:38】


(26)街道風景【10:40】

普通の民家の軒先にかなり大きなシュロの木があった。

(27)208号線との合流地点【10:43】

(28)矢の津坂【10:49】

元々は大変な急坂で雨が降ると膝まで埋まる悪路。

「馬子泣かせの道」といわれたとのこと。

(29)仏像群【11:00】

左端が多頭観音のようで「寛政七年」と読める。

中央も同類のものか?

右端は明治6年、南無阿弥陀仏 というのが分かるが、ひょっとして墓碑では?

前面に飾られた花が遠くからも鮮やかだったが、造花だった。

(30)馬頭観世音像群【11:02】

七基すべてが馬頭観音だった。

周辺の街道筋にあったものを、道路開発の際などに一か所に集めたものだろうか?



(31)浦賀駅【11:11】

街道風景【11:14】

(32)屯営跡の碑【11:16】


歩道上に設置されていた咸臨丸のレリーフ

(33)大衆帰本塚の碑【11:17】

現在の地に移されたのは平成9年。

 

本来あった崖地の近くには古くから火葬場があり、コレラの流行や旅の途中で亡くなって荼毘に付された人々を弔うため、元治元年(18649月に建てられたもの。

  

碑文は浦賀奉行所与力の中島三郎助の文章と筆跡がそのまま刻まれているそうだ。

 

なお、「大衆」は仏教では「だいしゅ」と読み、「多くの僧たち。衆徒。」のこと。


(34)浦賀道道路元標【11:18】

街道風景

(35)浦賀造船所「浦賀ドック」【11:21】



一世紀以上にわたって約1000隻にのぼる艦船等を造り続けてきたが、平成15年(2003)に閉鎖された。

  

一部が「浦賀コミュニティ広場」となっているようで、当日は、数台のパトカーが何度もタイヤのきしみ音を立てて走り回っていた。

何をしていたのかは、後日調べたが不明。(警察の訓練?ドラマの撮影?) 



(36)浦賀コミュニティセンター分館(郷土資料館)

【11:27】

中には浦賀奉行所の模型がある。

次の写真のように、入口右側には消毒液、左の中島三郎助はマスク姿。

こうした光景が、早く歴史の一コマになってしまうことを願いたい。


<2021年12月18日追記>

土方歳三を描いた小説「燃えよ剣」を読んでいたら、終盤、函館の五稜郭での話の中で中島三郎助が出てきて驚いた。

榎本武揚が降伏するのではないかとのうわさが広がり、それを確認するために五稜郭に駆け付けた時に土方歳三と会い、話をしていることになっている。

中島三郎助は浦賀奉行所の与力を勤めた後、長崎で軍艦操縦法を学び、その後榎本とともに函館に行き、 この時には五稜郭の支城ともいうべき千代ヶ岱砲台の守備隊長になっていた。そして榎本が降伏した後も千代ヶ岱砲台だけは降伏せず、彼は戦死している。とのこと。

新選組とのこうした接点があったということは、時代背景から考えれば当然かもしれないが、ちょっと意外で興味深かった。





(37)浦賀道の案内板【11:39】



(38)西叶神社【11:41】

養和元年(1181年)文覚上人(もんがくしょうにん)創建。

現在の社殿は天保13年(1842年)に再建されたもの。

(39)ええじゃないかの説明板【11:41】

(40)廻船問屋跡【11:43】


(41)浦賀の渡し【11:45】


(42)関東大震災の慰霊塔【11:45】


街道筋の古い民家


(43)愛宕山公園【11:49】



公園に行くつもりだったが、入口の階段が次の写真のように両端からの生い茂った雑草で踏面が見えない状態なので、今回はパスした。

(44)船番所跡【11:54】

道の両側に異なった案内板があった。


船番所跡から見える浦賀湾


(45)浦賀港引き上げ記念の碑【11:56】

(46)為朝神社【12:00】

創建は文政期(1820年代)で、寛政12年(1800)浜町の漁民が海を漂流していた鎮西八郎為朝の木造を拾い、地蔵堂に安置したといわれているそうだ。

  

浦賀道の上大岡にも「源為朝の祠」があった。

 ◆旧浦賀道_保土ヶ谷-上大岡  ここの(17)


われわれからすると、頼朝や義経に比べて為朝の名前は耳にする機会が少ないのだが、江戸時代の人にとっては今よりずっとポピュラーな人物だったのかもしれない、と思って調べたら、次のような図がネットにあった。

調べたら、江戸時代、疱瘡などの疫病流行の際には、門口に「為朝の宿」「為朝ここにあり」などと書いた紙を貼ることが広く行われたそうだ。

 

為朝は身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、また剛弓の使い手で、剛勇無双を謳われたので、その武威を恐れて疫病神が退散するということだそうだ。

  

したがって、外部からの船の入口であるこの地の奉行所前に為朝神社があるというのは、そういう疫病除けの意味があったと考えるのが自然ではないかと思う。

 

ちなみに、日本でコレラが最初に大流行したのは文政51822年)8月から10月下旬にかけてといわれているので、為朝神社の創建年代とぴったり一致する。

  

(47)虎踊りの説明板【12:01】

為朝神社境内に掲げられていたもの。

(48)浦賀奉行所跡【12:04】

<2020年10月31日追記>

10月30日(金)の読売新聞に、浦賀奉行所の絵図2枚が市内の民家から見つかったという記事が出ていたので、下記に示す。(クリックで拡大表示)

幕末期に通詞(通訳)用の部屋が急遽準備されたことが分かるという。

以上で、保土ヶ谷宿から浦賀奉行所までを歩き終えた。

休憩を含めた今日の歩行時間は、3時間16分だった。

  

今日の経路の前半は細い山道が続いていて、それ以前も山間部が多かったので、今のような舗装がされていない昔の浦賀道というのは、初級の登山に近いような、少しやっかいな街道だったのだろうと感じた。

 

(37)浦賀道の案内板」には、「金沢からは陸路より早くて楽な船便がよく利用された」とあり、それは確かによく理解できる。

  

船便の利用は、現在は島ショ部以外ではあまり多くはないが、江戸時代にはすべての街道自体が今回の浦賀道のように整備されていないこともあって、今よりもずっと身近な交通手段だったのだろうと思った。

  

次回は、浦賀-逗子-鎌倉-戸塚を通る、西浦賀道を歩く予定である。

 

途中で見つけたマンホールの蓋、一種のみだが、以下に示す。

 ペリーと黒船をデザインしたもの。



以上

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◆旧浦賀道_大津-一色2020年10月28日

2020年10月14日(火)曇り

西浦賀道の大津から一色の区間を歩いた。


(1)東浦賀道との分岐点【8:50】

(2)宿守稲荷社(すくもりいなりしゃ)【8:51】

正徳3(1713)年に里人が宮ケ谷戸に勧請して、76坪の境内に

社殿を建立したといわれている。

  

昭和5(1930)年に京浜急行電鉄(当時は湘南電氣鐵道)が

開通すると、鎮座地が軌道敷となり撤去されたため、現在の

京急大津駅の脇に移遷されて同社の所管となったとのこと。

(3)大津おりょうさん公園【8:51】


(4)信楽寺(しんぎょうじ)【8:56】

永正(えいしょう)元年(1504年)<室町時代>開山と

伝えられる。

幕末の志士坂本龍馬の妻・お龍(おりょう)の墓がある。



坂本龍子(おりょう)の墓



2012年6月2日(日)に旧東海道の神奈川宿(横浜)

を歩いたが、その時に前を通った「料亭田中家」の説明

書きに、お龍が仲居として勤めていたことが書いてあった

ことを思い出した。 

   

その時に撮った田中家の写真を下記に示す。

お龍は明治7年に勝海舟(又は菅野覚兵衛)の紹介により

田中家で仲居として働きはじめる。

月琴(満月のような円形の共鳴胴に短い首を持つ弦楽器)

を奏で、外国語も堪能で、物怖じしないまっすぐな性格が、

ことに外国客に評判だったとのこと。

 

ただ、他の仲居からは浮いていて、頑固で使い辛かったと

いう話もある。

  

翌明治8年(1875年)、西村松兵衛と再婚し、西村ツルと

なり、横須賀で暮らした。

 

西村松兵衛は元は呉服商の若旦那で、寺田屋時代のお龍と

知り合いだったとのこと。

  

徒歩でしか移動できない時代に、一人で全国(土佐-大阪

-京都-江戸-横浜-横須賀)を歩き回って(放浪して)

しぶとく生きぬいてきた元気な女性もいたんだ、というこ

が、なぜか爽快な気分にさせる。

  

(5)信誠寺(しんじょうじ)【9:05】




蓮如上人が地面に逆さに差した杖から、のちに枝葉が

繁茂したと伝えられる「逆さ銀杏」。

(ちなみに、参道脇の幼稚園は「ぎんなん幼稚園」。)

逆さ銀杏の根元に建てられていた蓮如上人の石柱

調べたら「逆さ銀杏」は、都内麻布の善福寺<親鸞上人>、

長野県大鹿村<弘法大師>、山梨県の上沢寺<日蓮上人>

などがあるようだ。

    

杖を地面に突き刺した人物(上記記載の<>)が、場所に

よって異なるのが面白い。

(6)大津諏訪神社【9:08】

(7)大津陣屋跡【9:18】

大津中学校の入口脇にあった。

大津陣屋石橋

学校校内(駐車場)なので、勝手に入るわけにいかず、

入口の外から斜めに撮影。

今回撮影した写真では書いてあることがよくわからないの

で、ネットに掲載されていたものを次に示す。

(8)大津公園【9:24】

大津公園一帯は、明治期に横須賀の小海(現在の米軍基地

内)からこの地に移ってきた海軍射的場の跡地。

昭和26年に旧軍財産として大蔵省から横須賀市に譲渡され、

翌年から大津公園として、市民に開放されたとのこと。

  

(9)おりょう旧居跡【9:28】

 

10月26日の読売新聞夕刊に、当時4か所あったと

されるお龍の住居跡が、地元の龍馬ファンの地道な調査

で確定したとの記事が出ていた。

  

その記事によると以下の通り。

 1か所目:横須賀市大津保込(この掲示板の近傍)

 2か所目:横須賀市深田台

 3か所目:横須賀市上町

 4か所目:横須賀市米が浜通

  

今後これらの住まいをつなぐ観光ルートを、町おこしの

新材料にしたいとのことなので、機会があれば回りたい。)

(10)天神坂説明板【9:31】

(11)石仏群【9:31】

庚申塔が2基、地蔵菩薩が2基、狛犬が2基。

(12)愛染(あいぜん)神社【9:33】

(13)庚申塔【9:43】

(14)妙真寺保存金并神金里共有金碑【9:52】

(15)古道掲示板【10:00】

(16)公郷町の庚申塔群【10:11】

民家の横壁にあり、隣の駐車場からしか見えない。

(17)公郷神社【10:11】

(18)法塔【10:17】

道路沿いの民家の庭先

(19)庭先の石積仏塔【10:23】

ただの石積としか思えないのだが、花が添えられていたので

後で調べたら、ネットでは、次項と同じ三浦一族将士の墓と

されている情報もあるのだが??・・・。

(20) 三浦一族将士の墓【10:25】

「三浦一族」の始まりは、前九年の合戦で源頼義に従い、

その恩賞として1063年三浦の地を与えられて衣笠城を築い

たとされる三浦為通(みうらためみち)。

三浦一族は源頼朝の挙兵時にも馳せ参じた。

  

その後、三浦義村は、相模、河内、などの守護や侍所所司、

評定衆を歴任し、娘を執権北条義時の嫡子泰時に嫁がせて

外戚にもなり、義時の亡き後は、幕府の意向を左右するよ

うな政治力を持つ存在となったそうだ。

   

「三浦一族」というのは、激動の歴史の中の存在感のある

名脇役だったことを改めて知った。

見ての通り、エノコログサが沢山茂っていてよく見えない。

平家物語の「諸行無常」というのをちょっと感じてしまう

のだが。

(21)瘡守稲荷(かさもりいなり)碑【10:32】

瘡守稲荷自体は、ここから南西900mほどにある。

なぜここに石碑があるかは調べたが不明。

  

当時は命取りとなった疱瘡(ほうそう)=天然痘 に

対する病魔退散、病気回復祈願から、瘡守稲荷は創建

されたようで、全国各地にあるそうだ。

(22)庚申塔【10:38】

街道風景

(23)道標【11:12】

(24)庚申塔【11:15】

(25)地蔵尊【11:16】

(26)街道風景【11:17】

(27)高祖坂の庚申塔【11:22】

(28)馬頭観音道標【11:26】

馬頭観音の台座に「右浦賀 左金沢」とある。

文政5年(1822)に建立されたが、高速道路の建設により

昭和59年(1984)に現在地に移されたそうだ。

(29)石塔・庚申塔【11:30】

(30)街道風景【11:34】

車の多い県道27号線を少し歩いた後、交番の向かい側

から非常に細い道に入る。それが次の写真。

民家の庭先を通る本当に細い路地で、ちょっと戸惑った。

(31)六字名号(ろくじみょうごう)塔【11:43】

「六字名号」とは「南無阿弥陀仏」のこと。

それが正面に刻まれた石塔で、延宝6年(1678)造立。

(32)寺前の庚申塔【11:53】

(33)石造五輪塔【11:57】

鎌倉時代前期の武将・猪俣小平六範綱と岡部六弥大忠純

両将の墓と伝えられているが、それを示す直接の資料は

残念ながらないとのこと。

(34)日露戦役記念碑【11:59】

日露戦役における従軍者15名の顕彰碑で明治39年建立

(35) 栗坪の庚申塔【12:00】

周囲の雑草が酷くて全体像が良く分からなかったが、

後日調べたら、元禄年間の造立で、庚申塔、馬頭観音、

地蔵尊、合わせて6体。

(36) 栗坪の六地蔵【12:01】

(37)県道への出口【12:11】

湘南国際村入口の交差点に出る。

(38)新善光寺【12:27】

(39)地蔵仏【12:34】

そんなに古いものではないようだが不明。

(40)吾妻神社(滝の坂不動)【12:39】

(41)一色住宅バス停【12:50】

今回は予定通りここで終了とした。

休憩を含めた歩行時間は、ちょうど4時間だった。

  

  

途中で見つけた横須賀市のマンホールの蓋。

一種のみだが、市の花ハマユウと中央に市章。

以上

 

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