◆旧東海道_四日市-庄野2019年05月20日

2019年5月14日(火)雨

四日市宿から土山宿までを3日間かけて歩いた。

 

1日目は 四日市宿-石薬師宿-庄野宿

2日目は 庄野宿-亀山宿-関宿-坂下宿

3日目は 坂下宿-土山宿

休憩を含めた歩行時間は、合計で13時間10分だった。

以下、3回に分けて記録しておく。

 

今回はその1日目。庄野宿まで歩いた。

 

前日の天気予報は「曇り」で降水確率40%だったが、

見事に外れて、終日、雨の中のウォーキングとなった。 

 

 

前回(4月4日)の終了地点、近鉄四日市駅前の「すわ

栄商店街の入口」を13:00に出発。

すぐに近くのコンビニのイートインで軽い昼食を取り、

そこからウォーキングを開始。

  

街道沿いには東海道のノボリが出ていた。【13:19】

(2)鹿化川に立てられた案内板【13:28】

(3)大宮神明社【13:30】


 (4)水沢(すいざわ)道標【13:32】

細い脇道を入ったところにあり、ちょっと判りにくい。

もみじがりっぱになりすぎて、道標がまったく見えない。

ネットに出ていた画像を参考までに転載する。

 (5)道標【13:44】

(6)日永(ひなが)一里塚跡【13:47】


 (7)名残りの一本松【13:51】

 
 (8)東海道日永郷土資料館【14:00】

日永(ひなが)は四日市宿と石薬師宿の間に立つ「間の宿」。

資料館の開館は水・土・日&祝日とのことで中に入れず。

(9)日永の追分【14:02】

東海道と伊勢街道の分岐点。右が東海道。

(10)道標【14:22】

(11)平成内部の一里塚の表示板【14:26】

不可解な表示板だったが、後日調べたところ、平成六年に

「平成の一里塚」の整備事業(歩行者やドライバーの目印

にもなるポケットパークを整備)行われたとのことで、

その看板だった。

  

つまり、旧東海道の一里塚跡とはまったく別もの。

 

ちなみに、内部(うつべ)というのはここの地名で、近く

流れる川は内部川。

お騒がせな看板だなあ。

(12)東海道の案内板【14:30】

道端で見かけた花壇【14:32】

(13)杖衝坂(つえつきざか)【14:39】


(14)芭蕉の句碑【14:40】

(15)采女(うねめ)一里塚跡説明板【14:46】

(16)采女(うねめ)一里塚跡【14:50】

前掲の説明に書かれていたように、少し離れた1号線の

ガソリンスタンド脇にあった。

(17)国分町の交差点【15:04】

ここから鈴鹿市に入る。左が旧東海道。右が国道一号線。

(18)道案内板【15:13】

(19)石薬師宿道標【15:19】

石薬師案内板【15:19】

(20)延命地蔵堂【15:20】

信綱かるた道

生家がある明治の歌人佐佐木信綱の歌碑が、町のあちこち

に見られた。

(21)道端で見かけた民家の石薬師宿掲示【15:26】

(22)小沢本陣跡【15:27】

(23)信綱の生家【15:30】

(24)石薬師寺【15:37】

紅葉の季節には綺麗だろうなあと思わせる入口の門

(25)御曹子社(おんぞうししゃ)【15:41】

(26)石薬師の蒲(かば)ザクラ【15:42】


(27)道標【15:48】

(28)石薬師の一里塚【15:50】

しばらく民家のない田んぼの脇を進む。【15:53】

(29)庄野宿の案内板【16:18】

石薬師宿から庄野宿までは3km弱と、東海道で2番目に

短い。

庄野宿の街並み【16:19】

車の往来も少なく、昔ながらの雰囲気がある。

(30)庄野宿資料館(旧小林家住宅)【16:22】

(31)問屋場跡【16:23】

(32)高札場跡【16:24】

(33)庄野宿本陣跡【16:24】

本陣跡は、庄野宿集会所になっていた。

ここまでは、おおむね和風の古い家並みで統一されている

ので、その中にあって、この建物だけがちょっと異質で

場違いな感じを受ける。

公共の建物だけにちょっと残念だった。

(34)庄野集会所バス停【16:25】

今回は集会所の向かい側のバス停で、予定通り終了。

本格的な雨の中を、時折吹く風にも悩まされながらも

そこそこ趣のある街道歩きを楽しめた。

 

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◆旧東海道_庄野-亀山2019年05月23日

2019年5月15日(水)曇り

四日市宿から土山宿までを3日間かけて歩いた。

その2日目。

  

今日は、庄野宿から坂下宿まで歩いたが、2回に分けて

記載する。1回目は、庄野宿から亀山宿。


(1)庄野町集会所前バス停【7:25】

前日の終了地点を出発。

(2)川俣神社【7:27】

(3)東海道道標【7:28】

(4)国道との交差点の道案内図【7:30】

(5)案内図に示された地下道【7:33】

(6)従是東神戸領(これよりひがしかんべりょう)の碑

7:40】

途中にはセメントで繋げたような補修の跡が。

道の反対側の同じ碑【7:40】

(7)女人堤防の碑【7:41】


 (8)中富田一里塚跡【7:47】


 (9)川俣神社【7:47】

一里塚のすぐ隣。

(10)川俣神社【7:56】

なぜ街道筋に三つも川俣神社があるのか不思議に思い、

後日調べたが、二つの川の合流点ということと関係が

あるらしいということだけで詳細は不明。

 

ちなみに鈴鹿川沿岸には六社も同名神社があるそうだ。

(11)和泉橋【8:00】

旧東海道より少し下流側に掛かるが、安楽川を渡る近傍

の橋はここしかないので渡る。

(12)井田川駅【8:17】

街道は鈴鹿市から亀山市に入る。

駅の住所は亀山市井田川町。

駅前の案内図【8:17】

 日本武尊の像【8:18】

駅前にあった。

ヤマトタケルが、東国の蝦夷を平定しての帰途、この

あたりで病死したと伝えられているとのこと。

(13)旧井田川小学校跡【8:26】

なつかしい銅像が傍にあった。

(14)道標【8:32】

(15)西信寺【8:33】

(16)法悦題目塔【8:40】


 (17)和田道標【8:44】

(18)道標【8:45】

(19)石上寺(せきじょうじ)【8:50】

(20)和田一里塚跡【8:54】

かなり大きくて立派だが、残念ながら、平成に入って

から摸式復元されたもの。


(21)カメヤマ本社工場【9:03】

亀山ローソクで有名。

スパイラルキャンドルはここが元祖とのこと。

(22)露心庵跡【9:05】

ここから先が亀山宿。


(23)巡見道(じゅんけんどう)表示板【9:09】

 (24)江戸口門跡【9:17】
 街道はしばらく商店街となっている。【9:18】

残念ながら多くの店のシャッターが閉まっていたが、

時間が早いせいなのか、それとも・・・

(25)樋口本陣跡【9:22】

(26)交差点での案内板【9:23】

ここから商店街ではなく一般の街道となる。

歩道上のタイル【9:23】

(27)亀山城東三の丸跡【9:24】

屋号札の掲示【9:26】

 以降、多くの家屋に次のような表示が出ていた。

(28)遍照寺(へんじょうじ)【9:27】

古い街並み【9:28】

(29)亀山宿道標【9:30】

(30)西町問屋場跡【9:32】

 (31)飯沼慾斎(いいぬま よくさい)生家跡【9:34】

 

飯沼慾斎は江戸時代の医家で本草学者。

「リンネ(=分類学の父と呼ばれる博物学者)」の植物

分類法を最初に採用した「草木図説」を出版。

その価値は時代を経ても色あせることなく、海外でも高く

評価されていたとのこと。

 

こういう世界的な人が江戸時代にいたことを初めて知った。

江戸時代の文化が世界レベルだったことを改めて認識した。

(32)旧舘家住宅(枡屋)【9:34】

亀山宿の町家の代表的な例。幕末から明治にかけて

呉服屋を営んでいた大店とのこと。


(33)亀山城西之丸外堀【9:36】


 (34)亀山城青木門跡【9:40】

(35)亀山藩主石川家家老加藤家屋敷跡【9:41】


(36)京口門跡【9:47】

 現在の京口橋【9:47】

(37)森住宅【10:50】


(38)野村一里塚【9:58】

樹齢四百年のムクの木とか。

一里塚の碑文は何が書いてあるか判読が難しい。

(39)亀山藩大庄屋打田権四郎昌克旧宅跡【10:05】

横面には次のように書いてあった。

「打田家は江戸初め頃近江国(滋賀県)から野尻村(布気

町)に移住し、代々いくつもの庄屋をまとめる大庄屋を

務めた。

現在地から東海道を挟んだ北側にその屋敷があった。

打田権四郎昌克(1641~1758)は、元禄十五年(1702)

亀山藩に関する記録集「九々五集」を編さんした。」

  

ちなみに、ここに書かれた(1641~1758)だと117年間に

なるが、個人の生存期間とはとても思えないのだが???

(40)道標【10:06】

(41)布気皇舘大神社(ふけこうたちだいじんじゃ)

【11:08】

延喜式巻九「伊勢国鈴鹿郡19座並小布氣神社」とあり、

垂仁天皇18年の創始にかかる式内社。

布気皇舘太神社は、時代によっていろいろな名で村人に

親しまれたが、明治41年近郷の小社・小詞を合祀し、

現在の社名となったそうだ。

(42)古い民家のままの郵便局【11:10】

(43)一号線と交差する場所の道標【10:15】

(44)大岡寺畷(たいこうじなわて)【10:18】

「畷/縄手」(なわて)とは、細いまっすぐな道のことで、

この大岡寺畷は約2キロにわたって鈴鹿川に沿って築かれた

堤の上を通る。

当時、東海道の畷道の中で随一の長さであったらしい。

畷から見えた鈴鹿川【10:22】

(45)高速道路との立体交差点【10:25】

壁面に浮世絵が描かれている。


これから関宿に入る。

以降は「関-坂下」に続く。


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◆旧東海道_関-坂下2019年05月29日

2019年5月15日(水)晴れ

四日市宿から土山宿までを3日間かけて歩いた。

2日目は庄野宿から坂下宿まで歩いたので、庄野-亀山と

関-坂下の2回に分けて記載する。

今回はその2、関-坂下。

 

(46)関宿入口【10:40】

国道一号線との分岐点。右が東海道。

入口の案内板【10:41】

関の小萬のもたれ松【10:41】


(47)東の追分【11:12】

関宿は2017年に単独で訪れている。

そのときはここから西の追分の区間のみを歩いた。

http://slowly-walker.asablo.jp/blog/2017/02/05/8351482

 

ここに鳥居があるのは、ここが伊勢別街道との分岐点

(追分)だからで、伊勢神宮の式年遷宮の際、古い鳥居を

移築するならわしになっているそうだ。


関宿の街並み【11:15】

街並みを江戸時代の旧街道風に、ここまでの規模で揃えて

いるところは、他には見当たらない。

まさに街道散策が一番絵になる宿場。


(48)御馳走場跡【11:17】

「馳走」は本来「走りまわる」の意味。これが「もてなす」

「世話をみる」の意に転じたそうで、この「御馳走場」とは

大名行列を宿役人が出迎えたり見送ったりする場所のこと。

  

関宿には四カ所の「御馳走場」があったということだ。

美容院【11:18】

町の雰囲気を壊さないような看板がなんとも粋。

「御髪結処(おんかみゆいどころ)美容院マチ」とある。

(49)道標【11:19】

(50)問屋場跡【11:21】

(51)川北本陣跡【11:22】

電話ボックス【11:22】

(52)伊藤本陣跡【11:23】


さすがに中心部には観光客が多くいた。

(53)高札場【11:24】



(54)関地蔵院【11:26】

天平13年(741)行基菩薩の開創と伝えられている。

(55)旧田中家住宅【11:27】


「旧田中家住宅」の主は、質屋から金融、山林業などへ

と手を広げ、明治時代には周辺に広大な土地を所有し、

水田から上がる米や造林業で財を成していったとのこと。

 
 また、田中家6代当主の田中亀(き)甫(ほ)は「華道

の大家」だったとされ、地元の人を弟子に持つ師範であり、

文化人としても活躍していたそうだ。

  
 (56)西の追分【11:36】

(57)国道一号線との合流点の道標【11:37】

(58)転び石【11:42】

何度かたずけても街道に転がり出たという伝説の石。


しばらく国道一号線を進む。

 

国道一号線からの分岐点【11:45】

(59)西願寺【11:50】

西願寺前の常夜灯【11:51】

暫く脇道を歩いた後、再び一号線を進む。【11:56】

(60)筆捨山の説明板【12:02】


(61)一里塚阯【12:09】

再び一号線から離れる。

(62)分岐点表示板【12:11】

車の出入りがほとんどなくなった山道を進む【12:13】

山道はやがて旧街道らしくなる【12:29】

(63)鈴鹿馬子唄会館【12:30】

(64)鈴鹿峠自然の家【12:30】

廃校となった小学校の校舎を活用し、野外体験学習など

宿泊研修が出来る施設にとして改築したもの。

中に入りたいと思ったが、事前に利用予約の申請しないと

見学もNGのようだった。


馬子唄会館と自然の家の間の道【12:30】          

木の細い柱が建てられていて、それぞれに東海道の宿場の

名前が記されている。

(65)坂下宿の説明板【12:41】


(66)松屋本陣跡【12:42】

(67)伊勢坂下バス停【12:42】

予定通り、本日はここまでとし、その後、13:03発の

バスで関駅まで戻った。

ちなみに、この時間に乗り遅れると、次は16:05まで

バスはない。

  

関駅前の「道の駅」で休憩した後、まだホテルに行くには

早いので、関宿を再び西の追分方向から入って散策した。

 

   

百五銀行【13:56】

関神社【14:00】

途中で見つけた鬼瓦。【14:10】

金色の装飾は珍しいかなあと思ったのだが・・



その後しばらく散策を続けた。


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◆旧東海道_坂下-土山2019年05月31日

2019年5月16日(木)晴れ

四日市宿から土山宿までを3日間かけて歩いた。

 

今日は3日目で、坂下宿から鈴鹿峠を越えて土山宿まで

歩いた。

(67)伊勢坂下バス停【9:10】

亀山市のコミュティバスを使って、昨日の終了地点に到着。

ちなみに、このバスは午前中にはこの一本しか運行されて

いない。

せめてもう少し本数があればと思っていたが、乗ってみて

すぐに理由が分かった。何しろ乗客は私一人きりなので。

しかも30分近く乗っていて料金は百円。

 

(68)大竹屋本陣跡【9:11】

隣はゴミ収集場所。今までにもどこかで見たようなパターン。

(69)梅屋本陣跡【9:12】

(70)法安寺【9:12】

(71)小竹屋脇本陣跡【9:13】

古い民家【9:13】

多くはないがこうした家屋も見られる。

(72)身代わり地蔵【9:16】

大名行列を横切った子供の身代わりになったお地蔵様と

伝えられている。

(73)岩家十一面観世音菩薩【9:20】

「十一面観音(じゅういちめんかんのん)」は苦しんでいる

人をすぐに見つけるために頭の上に11の顔があり、全

方向を見守っていて、十種勝利(現世利益)と四種果報

(死後成仏)という様々なご利益があるそうだ。

 

しかし、門が固く閉ざされていて、周囲は木々がうっそう

と茂り、菩薩像は拝むことが出来なかった。

しばらく国道一号線脇の道を進む。【9:22】

途中から山道になる。【9:30】

ちなみに、これ以降、鈴鹿峠までの山道は、事前に確認

した GoogleMap には出てこなかったので、標識のみを

頼りに歩くことになる。

説明板【9:33】


(74)片山神社【9:35】

道路標識【9:36】

国道一号線の高架下を通る。【9:38】

ここまでの山道の感じは、何となく箱根に似ていたが、

距離的にははるかに短く、軽いハイキング程度。

 

途中、案内板がいくつかあった。


(75)鏡岩への分岐点【9:48】

東海道道標【9:49】

鈴鹿峠の道標【9:50】

(76)万人講常夜燈【9:54】

鈴鹿峠の休憩所前にあった。

多分、今まで見た中で一番大きな常夜灯。


下り道は登山道ではなく普通の道。【9:58】

写真の右側に国道一号線が走っていて、すぐに合流する。

道路わきで見つけたさつき(つつじ?)【10:06】

国道一号線【10:07】

歩道は整備されているのでそこをしばらく進む。

積雪地帯らしく融雪装置が設置されているが、ガード

ールはなく、トラックがけっこうな速さで横を走り

すぎていくと、いささか恐い。

(77)十楽寺【10:22】

(78)観光案内図【10:28】

(79)地蔵堂【10:29】

(80)山中一里塚公園【10:29】

次項以下の多くの史跡標識があった。

常夜灯

擽野観音道(いちのかんのんみち)道標


(81)道案内図【10:57】

(82)蟹坂古戦場跡【11:05】


(83)田村永代板橋(海道橋)【11:11】


(84)高札場跡【11:14】

(85)田村神社【11:14】


(86)道案内図【11:18】

(87)土山宿案内図【11:20】

土山宿の街並み【11:22】

(88)旅籠鳥居本屋【11:22】

これ以降、こうした旅籠の案内がいくつも出ていた。

(89)道標【11:25】

(90)一里塚跡【11:25】


(91)橋の欄干に掲げられた浮世絵【11:35】

(92)白川神社【11:36】

(93)森白仙(森鴎外の祖父)終焉の地(井筒屋跡)【11:39】

(94)問屋場跡【11:40】


(95)東海道伝馬(てんま)館【11:41】

馬子模型

すべて実物のスケールで作成されているとのことで、

農耕や荷役等に当時使用されていた馬が、かなり小型

だったことが分かる。

大名行列の模型


森鴎外と土山宿の説明板【11:46】


(96)土山宿問屋宅跡【11:47】


(97)土山宿本陣跡【11:48】


(98)大黒屋本陣跡&問屋場跡【12:17】


高札場跡【12:17】

(99)土山宿陣屋跡【12:18】

(100)土山宿説明板【12:23】


(101)御代参街道(ごだいさんかいどう)起点道標【12:24】

「右北国たか街道 ひの八まん道」と書かれてある。

 

御代参街道は、江戸時代に整備された脇街道で、土山宿

から中山道小幡までの約36Kmを結ぶ。

伊勢道とも呼ばれる。

(102)伊勢大路(別名阿須波道)碑【12:38】

伊勢大路は、平安時代に開かれた、平安京から鈴鹿峠を

経由して伊勢に至る古道。

(103)道路案内図&垂水斎王頓宮跡【12:41】

垂水斎王頓宮跡(たるみさいおうとんぐうあと)

斎王(天皇が即位するごとに、名代として伊勢神宮に

遣わされた女王)が宿泊した場所が垂水斎王頓宮。

「垂水頓宮御殿跡」がこの後少し先にあった。


(104)瀧樹(たぎ)神社【12:45】

(105)垂水頓宮御殿跡【12:57】

(106)長泉寺【13:00】

(107)一里塚跡【13:05】

(108)大日川(堀切川)掘割【13:07】

掘割とは、地面を掘って水を通したところ。


松並木【13:08】

少しの区間だが松並木があった。

(109)従是(これより)東淀領の石碑【13:11】

(110)東海道反野畷碑【13:12】

(111)シーボルトとトキの剥製の説明板【13:14】 


街並み【13:15】

(112)三好赤甫旧跡【13:25】


(113)若王寺口(にゃくおうじぐち)バス停【13:30】

予定通り、若王寺口バス停で三日間の行程を終了し、

 ここから13:47発のバスで貴生川駅経由で帰った。

 今回は、移動手段としてコミュニティーバスを使用した。
   初日&二日目は、 鈴鹿市コミュニティバス
   二日目&三日目は、亀山市コミュニティバス
   三日目は、    甲賀市コミュニティバス
 いずれも本数が少ないこともあって、事前に調べた停留所

での発車時刻を常に気にしながらのウォーキングだったが、

どこも計画通りの時間で歩き通すことが出来た。


 今回は都市部を通らなかったせいもあって、旧街道らしい

風情を十分に楽しめた。

ただし、一里塚や本陣等の史跡建物では、江戸時代のもの

を見ることが出来なかったのが、やや物足りなかった。

  
 途中で見付けたマンホールの蓋を下記にまとめて示す。

 

 鈴鹿市。農集排の蓋。
 なぜトンボが二匹なのか、後日調べたが不明。
 亀山市。
 亀山城多聞櫓(やぐら)と亀山市の花の花ショウブが
 描かれている

関市。

お地蔵さんと旅人をモチーフにして生まれた旧関町の

イメージキャラクター「アスレ」を描いたもの。

関市。

関の鳥「キジ」、関の動物「シカ」、関の木「シャク

ナゲ」が描かれている。

土山町。

町の木「スギ」と町の鳥「キジ」、町の花「茶」が

描かれている。

以上

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