◆旧東海道_藤枝-金谷 ― 2018年11月04日
2018年10月30日(火)晴れ
藤枝から見付(磐田)までを3日間かけて歩いた。
1日目は、藤枝宿-島田宿-金谷宿
2日目は、金谷宿-日坂宿-掛川宿
3日目は、掛川宿-袋井宿-見付宿。
休憩を含めての歩行時間は、3日間で合計16時間10分。
以下、3回に分けて記録しておく。
今回はその1日目の記録。
(1)JR藤枝駅【10:52】
(2)青木の交差点【11:02】
前回到達したこの交差点からスタート。
(3)掲示板【11:10】
私的なものらしく、不動産屋さんの外に掲げられていた。
(4)石仏群【11:16】
(5)古東海道蹟【11:17】
(6)東海道追分道標【11:19】
(7)田中藩領牓示石蹟【11:33】
東海道の松並木【11:22】
道沿いには比較的多くの松並木が残っていて、東海道
らしい雰囲気がある。
2枚目の写真は、その松の根が完全に歩道を占拠して
いるところで、他にも同様のところは見られた。
普通に考えると、歩行者の通行に危険だということで、
松の木を撤去するという話になるように思うのだが、
旧東海道の景観を保存しようという粋な取組で残されて
いる・・・のだろう。
(単に歩行者が少ないので問題にならないだけ・・・
ではないですよね?)
(8)上青島一里塚跡の道標【11:48】
今回の行程では、静岡県が設置したこれらの道標の木製
表示板の劣化が激しく、見難いところが多く見られた。
(記念の道標を木製で製作すること自体、いかがなもの
でしょうね。)
(9)監物川と監物橋の説明板【12:37】
(10)島田宿の説明掲示板【12:52】
かなり詳細に記載されていた。
これによると、静岡県の中で島田宿は府中宿(現静岡市)
に次いで2番目に人口が多かったそうだ。
(11)島田宿一里塚跡【12:53】
本通り商店街【12:54】
「ようこそ島田宿へ」との掲示はあるが、特にそれを積極
的にアピールしている様子はなかった。
田舎の普通のシャッター通りということで、人通りも
まったくない。
(12)島田宿案内図【12:57】
(13)おび通り【12:59】
島田市の“区画整理事業”によって平成19年に整備された
散歩道。
和風の街並みが綺麗に整備されている。
ただ、平日だからか、私以外に歩いている人が誰もいない
というのも少し意外だった。
ちなみに「おび通り」という名は、後で寄った大井神社で
行われるおび祭りからとったもの。
(14)島田御陣屋(代官所)跡【13:01】
マンホールの蓋【13:00】
近くにあったマンホールの蓋。
今まで見てきたもののなかで一番綺麗だった。
(15)御陣屋稲荷神社【13:02】
このあと島田駅に立ち寄り小休止【13:30】
(16)史跡 宗長庵阯(そうちょうあんし)【13:30】
駅前にあった。
宗長は著名な連歌師で、亡くなった後、島田宿の俳人が
この場所に宗長庵を作ったとか。
(17)大井神社【13:39】
大井川の恩恵と水害の無いことを祈って建立された神社。
三年に一度の「おび祭」は日本三奇祭のひとつとして有名。
当時島田に嫁入りをすると、大井神社に参拝の後、新婦が
嫁入りの丸帯を持って町中全戸に挨拶回りをする風習があり、
大井神社の御神輿の行列である大奴の大太刀(おおたち)に
その帯を下げて披露するようになったことがはじまりとか。
次の写真はネットに出ていた実際のおび祭り。
(18)島田宿の道標【13:53】
(19)塚本家【13:58】
(20)島田宿川越遺跡【14:00】
多くの史跡や古家屋が綺麗に残されている。
普通の宿場町には見られない施設だったので、なかなか
興味深かった。
ここでようやく他の観光客にもあった。
仲間の宿
川越人足たちの集まった宿。
仕事上の意見交換や親睦の場だったとか。
札場(ふだば)
一日の川越しが終了した後、人足の川札を回収し、ここで
現金に替えて人足たちに賃金として分配していたとのこと。
川会所
川の深さなどを測って川越しの料金を決めたり、川札
(かわふだ=切符)の販売のほか川留めや、川開けなどを
取り仕切った川役人がいた場所。
(22)道標【14:08】
(23)島田市博物館【14:08】
大井川の川原【14:10】
(24)川原の道標【14:16】
大きな石碑には「永仲景述」と書かれているが、何の
石碑なのか、後日調べたがよくわからない
隣の道標には島田宿と書かれている。。
(25)大井川橋【14:27】
川越場所の北側に掛かる橋。
今までに徒歩で渡ったことのある橋の中でも、一番と
思えるほど長かった。
(26)金谷宿の道標【14:31】
(28)新金谷駅にある転車台【14:40】
意外に想像よりも小振りだった。
(29)佐塚屋本陣跡【14:56】
今は佐塚書店となっていた。
(30)柏屋本陣跡【14:58】
JAの前にあった。
(31)金谷宿案内図【15:02】
(32)金谷宿の道標&一里塚跡【15:03】
(33)JR金谷駅【15:07】
本日はここで終了。
◆旧東海道_金谷-掛川 ― 2018年11月09日
2018年10月31日(水)晴れ時々曇り
藤枝宿から見付宿(磐田)までを3日間かけて歩いたが、
今回はその2日目。
金谷宿から日坂宿を通って掛川宿まで行った。
JR金谷駅を8時36分に出発。
(1)駅前の案内板。【8:36】
(2)旧東海道石畳入口【8:43】
(3)金谷坂石畳【8:45】
坂道を登るとすぐに旧道の趣がある石畳が表れる。
比較的傾斜が強い上り坂。
但し、平成3年(1991年)に復元されたもの。
箱根などにも同様のものがあったが、この丸石がけっこう
歩きにくい。
本来は石の上に全体に薄く土や砂を敷きつめていたのだが、
その土などが長年の風雪で無くなってしまったのでは???
とも思ったりしたのだが・・・
それとも、丸石の状態のままでは歩きにくい、と考えるのは、
平らな舗装路に慣れきった現代人の傲慢さなのか?
(4)諏訪原城跡【9:00】
途中で立ち寄った。山中の気持ちのいい散策路。
ただ、ところどころに標識があるから、ここが城跡なんだ
と思えるが、それらがなかったら、単なる普通の丘や林と
しか思えず、そこに実際に城が建っていたことを具体的に
想像してみることは難しい。
(5)菊川坂石畳【9:18】
ここも平成13年(2001年)に復元されたもの。
一部に江戸時代後期の石畳(平成12年に発掘)が残って
いるとのこと。
(6)菊川の里の道標【9:37】
(7)間の宿 菊川の全体図【9:38】
建物の壁に記されていた。
(8)阿仏尼(あぶつに)の歌碑【9:53】
鎌倉中期の歌人阿仏尼が記した紀行文『十六夜日記
(いざよいにっき)』の一節「雲かかる さやの中山越えぬ
とは 都に告げよ有明の月」が刻まれている。
このあたりは、箱根峠・鈴鹿峠と並んで東海道の三大難所と
呼ばれた「小夜(さよ)の中山」の入口。
(ちなみに「小夜の中山」の代わりに薩埵峠(さったとうげ)
を「三大難所」に含めるという説明もある。
どちらにせよ公式に定められた呼称ではないようだ。)
通り沿いの軒先にあった干し柿【9:58】
(9)接待茶屋跡【10:00】
峠を上りきったところで、鎌倉時代の永仁年間(1300年頃)
から旅人の求めに応じて茶などを接待し、憩いの場と
なっていたといわれている。
(10)西行法師の歌碑【10:03】
「年たけて また越ゆべしと おもひきや 命なりけり
さやの中山」
文治3年(1186年)の奥州への旅の途中、生涯二度目と
なる中山峠越えを歌ったもの。
(11)小夜の中山公園【10:03】
(12)小夜中山一里塚【10:12】
(13)白山神社の道標【10:22】
日坂宿のマンホール【10:47】
(15)日坂宿の案内と道標&本陣跡【10:48】
(16)問屋場跡【10:52】
民家の敷地内。
案内板には当時のものは何も現存しませんとあった。
(17)旅籠 川坂屋【11:01】
一般庶民が宿泊する旅籠屋だが、川坂屋は、当時禁じられ
ていたヒノキ材が用いられていること、床の間付きの上段
の間があるなど、『脇本陣』の肩書はないものの、身分の
高い武士なども宿泊していた格の高い旅籠屋だったらしい。
横に「和助」の表示があるが、こうした掲示が多くの古い
民家に出されていて、旧東海道らしい趣がある街並みに
なっている。
(18)高札所跡【11:02】
(20)事任八幡宮(ことのまま はちまんぐう)【11:10】
東海道沿いにあって、難所であった小夜の中山の西側の麓に
あたることや、「ことのまま」の名が「願い事が意のままに
叶う」の意味を持つことから、昔から多くの人が旅の安全や
願い事成就を祈り、崇敬を集めた。
平安時代には清少納言の「枕草子」や多くの和歌、鎌倉時代
には吾妻鏡、江戸時代には十返舎一九の「東海道中膝栗毛」
などに「願い事が叶う神社」として登場しているそうだ。
(21)塩井川原の道標【12:03】
(22)伊達方一里塚跡【12:08】
(23)馬頭観音と成滝の道標【12:42】
(24)葛川(くずかわ)一里塚【12:59】
(25)掛川の七曲りの掲示【13:05】
案内図もあったが、道が分かりにくくて少し迷った。
ちなみに案内図での目印の「酒店」は、今はなかった。
(26)掛川宿東番所跡の道標【13:11】
七曲りの中にあった。
(27)掛川城大手門【13:47】
1995年に復元されたもの。
(28)掛川城天守閣【13:51】
戦国時代には山内一豊が城主として10年間在城した城で、
平成6年(1994年)に復元されたもの。
(29)掛川城近くの銀行【13:59】
銀行らしくない建物で、なかなか粋。
(30)平将門十九首塚【14:23】
住宅地の奥に公園の一角としてあった。
関東一円を制覇した平将門は朝廷への反逆者とみなされ、
天慶3年(940年)、藤原秀郷によって討伐される。
その平将門と18人の武将の首級が埋葬されている。
昔は19基あったものが時代と共に減ってゆき、将門のもの
と思われる大きな1基だけが残されたので、それを取り囲
むようにして18基の首塚が新しく作り直されたそうだ。
掛川のマンホール【14:24】
(31)大池橋の道標【15:02】
西掛川駅【15:09】
本日はここで終了。
◆旧東海道_掛川-磐田 ― 2018年11月12日
2018年11月1日(木)晴れ後曇り
藤枝宿から見付宿(磐田)までを3日間かけて歩いたが、
今回はその3日目。
掛川宿から袋井宿を通って見付宿(磐田)まで歩いた。
(1)西掛川駅【8:00】
西掛川駅(天竜浜名湖鉄道)を8時00分ちょうどに出発。
(2)大池一里塚跡 道標【8:06】
蓮祐寺の入口門前にあった。
(3)松並木【8:28】
しばらく行くと旧東海道らしい松並木が続く。
(5)原川松並木の道標【8:32】
何が書かれているのかよく分からない道標だった。
(6)間の宿 原川の掲示板【8:33】
記載されているところによると、間の宿ながら、原川
には46件も家があったそうだ。
売店などで賑わっていたというのがちょっと意外。
(7)名栗の道標【8:40】
(8)袋井宿の浮世絵看板【8:43】
道沿いの小公園に掲げてあった。(一部剥げているが)
一里塚などでは、こうした簡易休息所みたいなところを
近所の農民がやっていたのだなあと思うと、のどかな
風景の中にも、農民のしたたかさがしのばれる。
(9)松並木【8:50】
(10)富士浅間宮赤鳥居【8:56】
(11)久津部一里塚【9:05】
(12)どまんなか東小学校【9:06】
袋井宿は江戸から27番目の宿場町なので、「東海道
五十三次どまん中」ということを町のキャッチフレーズに
しているようだ。
後で確認した袋井市のHPにも強調されていた。
この学校以外にも「どまん中」を付けたものが街道沿いに
いくつかあった。
(13)西新屋の道標【9:25】
(14)新屋の秋葉山常夜灯【9:28】
石で造られた灯篭型常夜灯はよく見たが、こうした
木造屋型はめずらしい。
(15)市役所前の道標【9:30】
旧東海道の道標で、「市役所前」という表示にはちょっと
違和感が・・・
(16)袋井宿と天橋の掲示板【9:34】
(17)袋井宿の道標と「どまん中茶屋」【9:35】
(18)袋井宿東本陣公園【9:39】
(19)本町宿場公園の再現高札場【9:51】
袋井宿に関連した浮世絵の掲示板【9:53】
こうした掲示板がこれまでも街道沿いにいくつも見られた。
すべて「寄贈:***」という表示があり、多くの地元
企業の寄付で造られたようだ。
(20)澤野医院記念館【9:58】
居宅は江戸時代後期、洋館は大正5年、病棟は昭和初期の
建築と伝えられるもの。
(21)木原松橋の道標【10:13】
(22)木原一里塚【11:02】
(23)木原畷(きはらなわて)古戦場【10:18】
許禰神社(こねじんじゃ)に掲げてあった掲示板。
久野城を攻めた武田信玄はここ木原に陣をはり、浜松城を
守る徳川家康の偵察隊と衝突したが、この戦いを木原畷の
戦いというそうだ。
ちなみに、畷(なわて)とは、田の間の道。あぜ道。
まっすぐな長い道。とのこと。
(24)木原の道標(袋井市)【10:19】
少し先に行くと磐田市に入る。
(25)三ケ野の道標(磐田市)【10:39】
近くに松並木が残っていた。
磐田市のマンホール【10:47】
後で調べたら、描かれているのは、市の虫「ベッコウ
トンボ」だそうだ。
(26)江戸の古道入口【11:06】
最初、上の古道入口を間違えて、この周辺で少し迷って
しまった。
次の写真がその古道で、突き当りが住宅地の公園になって
いて、大日堂がある。
(27)古戦場大日堂【11:11】
大日堂から先は住宅街。
(28)立場跡の看板【11:15】
民家前に立てられていた
(29)松並木【12:14】
(30)従是西見付宿の掲示板【12:15】
従是西=これより西 という意味。
(31)行人坂の掲示【12:16】
このあたりは「行人坂」 と言われ、山伏が多く住んでいた
との事。
ちなみに行人(ぎょうにん)とは、仏道を修行する人や
山伏のこと。「こうじん」と読むと、通行人や使者のこと。
日本語はややこしい。
(32)東木戸モニュメント【12:27】
木戸跡の前にあるはずの阿多古山一里塚が見当たらず、念
のため、近くの愛宕神社の昭和3年造と書かれた古い石階
段を上ってみたら、その社殿のさらに上に一里塚があった。
2枚目の写真の左奥の赤矢印が一里塚。
つまり、昔の東海道は、この一里塚のすぐ横を通っていた
ということで、それだけ今よりも標高が高い山間部だった
ということでしょう。
(33)阿多古山一里塚【12:34】
(34)見付宿の掲示板【12:42】
(35)見付宿の道標【12:48】
「見付本通り広場」の入口にあった。
磐田の街並み【12:48】
掲げられている水色の旗は、「ジュビロ磐田」。
(36)脇本陣大三河屋門【12:49】
(37)姫街道との分岐点【12:53】
姫街道は、浜名湖北側の本坂峠を経由して、見付宿と
御油宿を結ぶ脇街道。
(38)西木戸のモニュメント【12:56】
(39)国分寺跡【13:04】
(40)磐田駅【13:20】
本日はここまでで終了。3日間のウォーキングを終了した。
3日間とも風はやや強かったが歩きやすい天候で、街道も
昔の雰囲気がそこそこ残っていてよかった。
歩行時間は、休憩(及び、一部迷走)を含めて、
1日目4時間17分、
2日目6時間33分、
3日目5時間20分、合計16時間10分だった。
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◆旧東海道_磐田ー浜松 ― 2018年11月20日
2018年11月13日(火)曇りのち雨
見付宿(磐田)から吉田宿(豊橋)まで
3日間かけて歩いた。
1日目は、見付宿(磐田)-浜松宿
2日目は、浜松宿-舞阪宿-新居宿
3日目は、白須賀宿-二川宿-吉田宿(豊橋)
休憩を含めての歩行時間は、合計約15時間だった。
以下、3回に分けて記録しておく。
今回はその1日目。
JR磐田駅を11時00分ちょうどに出発。
写真は駅前を出てすぐそばの角を曲がったところで、
前回終了した地点【11:08】
(1)中泉の道標【11:17】
中泉交流センターの前にあった。
(2)大乗院坂界隈&くろん坊様の掲示板【11:24】
松並木【11:31】
しばらく行くと旧東海道らしい松並木が少し見られた。
(3)宮之一色一里塚の道標【11:32】
(4)宮之一色常夜灯【11:38】
(7)長森立場の道標【11:59】
(8)常夜灯【12:12】
マンホールの蓋【12:12】
近くの行興寺では毎年「熊野(ゆや)の長藤まつり」が開
催されるとのことで、それをデザインしたものだそうだ。
ちなみに天然記念物の藤は樹齢八百年とか。
(9)天竜川渡船場跡【12:16】
行興寺の近くの川原の堤防上にあった。
その後、来た道を少し戻って新天竜川橋を渡った。
<今回は、この渡船場跡を見た後すぐに新天竜川橋に
行って先に進んだが、この場所より北側には、まだまだ
史跡があったことを後日知った。
よって、2019年10月31日に姫街道を歩いた時に
そこを訪れた。
ここからしばらく、その時の写真を追加しておく。>
(96)<道標>
(97)<天白神社>
(98)<池田橋の跡>
(99)<常夜灯&祠>
(100)<歴史風景館>
(101)<行興寺>
<追加はここまで>
左側が旧国道1号線の天竜川橋。
中央が新天竜川橋の側道(歩道)で右側が現国道1号線
橋を渡り切ったところ(浜松市中野町)にあった案内板
(11)船橋木橋跡【12:43】
(12)旧東海道の案内板【12:44】
ここには、中野町について、ちょうど東海道の真ん中
だからその名がついたと書いてあった。
(袋井市の人たちはどう思うだろうか?)
中野町萱場村の高札場だったらしい。
松並木【13:26】
国道1号線のガード下をくぐったあたりから、断続的
ながら何本も松が続いていた。
(16)立場跡の説明板【13:30】
東海道お休み処協力隊の掲示【13:39】
こうした掲示がところどころに出されていて、ベンチ
などもあった。
弥次喜多も通った道だと書いてあった。
このあと浜松中心部まではさしたる史跡は何もない。
14時位から小雨がぱらついてきたので、途中で休憩に
JR浜松駅に立ち寄ったが、駅前近くには次のような
標識もあった。
(18)本田技研工業本社跡【14:50】
東海道からは少し外れるが、せっかくなので浜松城にも
立ち寄った。
(19)浜松城大手門跡【15:01】
(20)浜松城【15:09】
浜松城天守閣
浜松城の石垣と天守台の説明
再び東海道に戻る。
(21)浜松宿の道標【15:22】
(22)佐藤本陣跡【15:23】
(23)杉浦本陣跡【15:26】
(24)川口本陣跡【15:27】
宿場町らしい「旅籠町」のバス停【15:34】
(25)成子の交差点で本日は終了。【15:40】
街中の車道歩きが多かったが、意外に松並木も途中何か所
も見られて、そこそこ旧街道の雰囲気は感じられた。
浜松のような街中に入ると道の整備も進んでいて、そう
いった風情が感じられないのは、やむを得ないのだろう
と思う。
本日の歩行時間は4時間40分となった。
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