◆旧東海道_蒲原-清水 ― 2018年07月19日
2018年7月12日(木)曇り時々晴れ
前回、6月8、9日に沼津から蒲原まで歩いたが
その続きとして、蒲原から藤枝までを3日間かけて歩いた。
3日間で、休憩を含めての歩行時間は、合計で
18時間30分だった。
宿場名でいうと、
1日目は、由比宿-興津宿-江尻宿
2日目は、江尻宿-府中宿-丸子宿
3日目は、丸子宿-岡部宿-藤枝宿
なお、この区間は静岡市からPDFマップが提供されて
いたので、参考にさせてもらった。
http://www.city.shizuoka.jp/000_006731.html
今回はその1日目の記録。
(1)JR蒲原駅
蒲原駅を10時に出発。
纏(まとい)がデザインされたマンホールの蓋が目に入った。
左上の「蒲」のマークは、旧蒲原町の町章だったそうだ。
(2)由比宿の道標【10:10】
(5)由比本陣跡【10:17】
今まで見てきた本陣跡というのは、板塀に説明書きが掲示
されている程度だったが、ここは公園として整備されていて、
かなり立派で大きな建物だったことがよく分かる。
その外堀にカメが多数いた。後で調べたら、春にはこの公園
でカメレースが行われているとか。
洗練された様式の、大正期の地方における銀行建築の好例
とのことで、登録有形文化財(建造物)。
(7)由比川橋脇の常夜灯【10:21】
由比川橋の欄干【10:22】
歌川広重『東海道五拾三次・由井』の浮世絵が描かれていた。
(しかし、なぜ浮世絵では「由比」ではなく「由井」なの
か?)
由比駅【10:40】
(8)今宿の道標【10:41】
(9)由比駅前の派手な看板【10:42】
まるで大きな商店街の入口のような看板だが、周囲には
人通りが全く感じられない田舎町の街道そのものであり、
その妙な違和感が逆におもしろい・・と言ったら失礼か?
(11)東海道名主の館「小池邸」【10:53】
(12)間の宿_本陣跡【11:06】
(14)間の宿_藤屋(望嶽亭)【11:07】
西郷隆盛と会うため静岡を訪れた山岡鉄舟を、建物内の隠し
階段や抜け穴を通して追っ手から海岸側に逃がしたという家。
この家がなければ日本の歴史が変わっていたと言う人も!
(15)一里塚跡と倉沢の道標【11:08】
ここから本格的に坂道になるが、次の写真のように駐車場
までは舗装されている。
(16) 薩埵山(さったやま)合戦場掲示板【11:25】
薩埵峠の道標。
前項掲示板の向かい側にあり、海が見下ろせる。
(17) 薩埵峠山之神遺跡【11:28】
写真の右側にあるのは「幸田文・文学碑」
幸田文(こうだあや)は、「露伴、漱石、鷗外」と並び称
された作家である幸田露伴の次女で随筆家・作家。
後日調べたら、碑に刻まれていたのは随筆『崩れ』の一節。
『由比の家ある風景をみると、その安らぎがあってほっと
したのだが・・<略>・・土よ、いつまでも平安であれ、
と念じていた』 と刻まれている。
この碑が建てられた平成18年(2006)1月には「由比地すべ
り対策事業」の起工式が行われており、「地すべり」への
由比の人々の思いが込められた「幸田文・文学碑」だった
そうだ。
舗装路はここまでで、後は山中の散策路になる。
散策路途中の東屋(あずまや)【11:36】
実は、当初の予定では、途中のコンビニで昼食を買ってきて
ここで食べるつもりだった。が!ここまでにコンビニは一軒
も見当たらず、やむを得ず素通り。
薩埵峠の道標【11:43】
猛暑の平日でもあり、薩埵峠を歩いていて出会ったのは
駐車場にいた道路工事現場のおじさん一人だけ。
なお、山道ではアゲハ蝶やクロアゲハ蝶などをよく見たが、
道の両側にミカン類の畑が多くあったせいかもしれない。
とにかく、優雅に蝶の舞う山道を、のんびりと一人歩き
出来て爽快だった。
(18)長山平常夜灯【11:57】
(19)牛頭観音菩薩像【12:08】
山を下りて普通の道をしばらく歩くと、片側の擁壁(よう
へき)の間に組み込まれたかのように、ひっそりと祀られ
ていた。
(20)川越遺跡【12:10】
興津川沿いの公園に建てられていた。
旧国道1号線との合流地点【12:21】
(21)一里塚跡【12:32】
旧国道1号線沿いの民家の軒先。
(22)東本陣跡興津宿公園【12:38】
興津宿の道標【12:38】
(23)一碧楼水口屋跡(水口ギャラリー)【12:40】
江戸時代には脇本陣として、明治から昭和にかけては別荘
旅館として、多くの著名人や文化人達が訪れたそうだ。
この後、道沿いのスーパーに入り、イートインコーナーで
昼食を取った。
(24)清見寺【13:20】
(25)興津坐漁荘【13:22】
去年見学したので今回は素通り。
<http://slowly-walker.asablo.jp/blog/2017/04/08/8449078>
(26)横砂延命地蔵尊【13:33】
(27)祖師ケ浦の道標【13:55】
(289細井の松原【14:05】
昔は1000本あまりあった松も今はたったの1本のみ。
その松も、平成4年に植樹されたものだそうで、いわば
フェイク史跡かな?
写真の左が国道1号線で右が旧東海道。
細井の松原の道標【14:05】
その後、清水駅前のファーストフード店でしばらく休憩し、
最終目的地の新清水駅に15時に到着。本日はそこで終了。
本日の歩行時間は、休憩も含めて5時間だった。
<全体のメインメニューは下記をクリック>
◆旧東海道_清水-丸子 ― 2018年07月20日
2018年7月13日(金)快晴
蒲原から藤枝までを3日間かけて歩いたが、今回はその2日目。
清水(江尻宿)から丸子(まりこ)宿まで歩いた。
熱中症対策として、新清水駅を6時30分に出発。
歩き出すとすぐに、サッカーの町を自称する清水らしい
マンホールの蓋があった。
(1)清水銀座にあった鯨のモニュメント【6:35】
近くの魚町稲荷神社に立ち寄った。
サッカー神社として有名で、様々な願掛けに多くの人が
訪れ、清水エスパルスの選手もシーズン前の必勝祈願に
訪れるそうだ。
(3)河童伝説稚児橋【6:41】
1611年(慶長16年)、巴川に初めて橋が架けられ、選ばれ
たおじいさんとおばあさんが、渡り初めで橋を渡ろうとし
た時、どこからかおかっぱ頭の男の子が現れ、あっという
間に橋を渡ってしまい、そのまま府中(現在の静岡市葵区)
の方へ行ってしまった。
実はその男の子は、巴川に住む河童で、はじめはびっくり
していた人々も「あの子供はきっと神様の使いに違いない」
とたいそう喜び、その橋に「稚児橋」と名付けたという事
だそうだ。
なお、「河童(かっぱ)」は、「かわ(川)」に「わらは
(童)」の変化形「わっぱ」が複合した「かわわっぱ」が
変化したもの。
(4)江尻宿木戸跡(?)【6:46】
無残にも道路工事の警告灯が取り付けられていた。
(5)都田吉兵衛供養塔【6:57】
(6)元追分の道標【6:58】
(7)金谷橋【6:58】
(8) 久能寺観音道_道標【7:09】
(9)上原堤(宗丹池)【7:10】
(10)上原子安地蔵堂【7:14】
(11)有度(うど)の道標【7:22】
(12)草薙一里塚【7:24】
持参したガイド本には、ショッピングセンターの前、と
記載されていたが、今は銀行の支店になっていた。
地方経済の現状ということか。
創建にはヤマトタケル伝説が大きく関係するとされる神社。
(14)旧東海道記念碑【8:14】
地下道【8:15】
鉄道で分断された旧東海道の反対側に渡るために通った。
通勤や通学の自転車がけっこう走っていた。
(15)古庄の道標【8:21】
(16)長沼一里塚跡【8:33】
隣がゴミの集積場所というのも・・・・
(17)静岡県護国神社【8:41】
(18)曲金観音堂【9:07】
曲金は狐ヶ崎と呼ばれた地で、1200年(正治2年)
1月20日に梶原景時一族と在地武士が戦った古戦場。
観音堂は合戦の戦死者供養のため、1988年(昭和
63年)に十一面観音を勧請して建てられたとのこと。
(19)東見附の道標【9:15】
(20)府中宿の道標【9:34】
(21)華陽院(けよういん)【9:39】
家康の祖母の菩提寺で、家康(竹千代)もこの寺の住職
から学問を学んでいたとか。
参勤交代の際には各大名が必ず参詣をしたそうだ。
(22)上伝馬本陣_脇本陣跡【9:45】
(24)西郷・山岡会見跡の碑【9:48】
江戸攻撃へ向かう東征軍参謀・西郷隆盛と幕臣・山岡鉄
舟の会見が行われた伝馬町の松崎屋源兵衛の屋敷跡。
山岡がここで西郷に直談判したことは、後日江戸におけ
る西郷・勝会談に大きな影響を与えたらしい。
(25)札の辻址【11:02】
(26)弥勒の道標【11:35】
(27)安倍川の義夫の碑【11:36】
(28)安倍川橋【11:37】
橋を渡ってから昼食を取った。
(29)丸子宿(まりこしゅく)の道標【13:19】
(30)一里塚跡【13:20】
(31)丸子宿見付(みつけ)跡の道標【13:25】
見付は今でいう警備室や守衛所で、役人が宿場に出入り
する人々を監視して宿場の警備を行っていた。
(32)丸子宿脇本陣跡【13:30】
(33)丸子宿本陣跡【13:31】
(34)お七里役所跡【13:33】
お七里役所は、徳川御三家の一つ紀州家が、重要書類の
送信のために、江戸屋敷と領国の間146里にわたって
7里間隔で独自に置いた飛脚の継立所(飛脚小屋)のこと。
この飛脚は幕府の継飛脚、民間の定飛脚(町飛脚)に対
して、「大名飛脚」・七里飛脚」とも呼ばれる。
(35)十返舎一九膝栗毛の碑&丁子屋【13:34】
丸子宿の道標【13:38】
丁子屋の向かい側
(36)丸子橋【13:38】
(37)高札場(こうさつば)跡【13:39】
高札場とは、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書
(おきてがき)などを木の板札に書き、人目のひくように
高く掲げておく場所のこと。
(38)二軒家大鈩不動尊入口のバス停【14:00】
本日はここで終了。
休憩を含めての歩行時間は7時間半だった。
その後、14:02発のバスで静岡駅に戻った。
<全体のメインメニューは下記をクリック>
◆旧東海道_丸子-藤枝 ― 2018年07月25日
2018年7月14日(土)快晴
蒲原から藤枝までを3日間かけて歩いたが、今回はその3日目。
丸子宿から藤枝宿(藤枝駅)まで歩いた。
(1)二軒家大鈩不動尊入口のバス停【8:00】
丸子宿はずれの二軒家大鈩不動尊入口のバス停からスタート。
(2)丸子紅茶の看板【8:06】
しばらく歩くとこんな看板があった。
「日本の紅茶発祥の地_丸子紅茶」
明治時代、旧幕臣の多田元吉翁がインドから持ち帰った
アッサム種の原木を静岡市駿河区丸子に植え、国産紅茶
発祥地として紅茶生産が始まったそうだ。
その後は海外からの輸入紅茶に押されて縮小したが、
地元農家が紅茶生産を途絶えさせまいと無農薬有機紅茶
の製造を試みて成功させたとのこと。
旧道から1号線に出たところのコンビニ駐車場の端。
(4)道の駅_宇津ノ谷峠(静岡側)【8:30】
ここでしばらく休憩。
道の駅内に展示されていた昔の宇津ノ谷峠の集落の模型
国道1号線を跨ぐ歩道橋【8:41】
宇津ノ谷峠に行くためにここを通った。
(5)宇津ノ谷峠の民家【8:45】
歩道橋をおりるとすぐに旧街道らしい民家が表れた。
見たばかりの模型と雰囲気がよく似ている。
(6)宇津ノ谷の道標&案内板【8:48】
宇津ノ谷集落【8:49】
旧街道の面影を残した集落。道はブロック舗装がされていた。
(7)慶龍寺(けいりゅうじ)【8:51】
宇津ノ谷峠を越える旅人が、鬼に会わぬようお参りした
という延命地蔵尊を安置している。
その延命地蔵尊は弘法大師作と言われているそうだ。
道標【8:56】
ここから先に進んだところで、うっかり道を間違えて
しまった。
実は下記地図の赤矢印の左折のぼり口を見逃して
しまったのだ。
迷走して青矢印のように進み、結局再び宇津ノ谷道標
に戻ってしまった。
(8)道標【9:21】
改めて集落内を歩き直して到達した「のぼり口」の標識が
下記の写真。
中央にある小さな標識がのぼり口の案内。
下部に左を差している赤矢印があるのだが、一見しただ
けでは分からない。
しかも、そこまでの道は、ブロック舗装の整備された比
較的幅の広い道路だったので、「のぼり口」以降もそう
いう道が続くと思いこんでいたのが間違いの元だった。
実際の「のぼり口」は、人がやっと一人通れるような、
草が生い茂った細い山道だった。
こんな細い道を参勤交代の行列が実際に通ったというの
は信じられない。昔はもっと幅広かったのかもしれない。
その山道をしばらく歩くと道幅は広くなり、次の写真の
ような道が続く。
山道の途中には、次のような説明碑がいくつかある。
峠の地蔵堂跡の石垣【9:29】
峠を越えて下りに入ると、途中から舗装路になる。
その写真が下記だが、これが非常に歩きにくかった。
というのも、路面全体が薄っすらと苔が生えているような
状態になっていて、トレッキングシューズでも非常に滑り
やすく、かなりゆっくりしたペースでしか歩けなかった。
【9:53】
これも不気味にうっすらと苔が生えまくっていて緑色。
(9)坂下地蔵堂【9:55】
(10)道の駅_宇津ノ谷峠(藤枝側)【10:04】
峠の前に入った道の駅とは、国道1号線の反対車線側に
なる。
つまり、二つの道の駅は、国道1号線のトンネルの両側
にあり、宇津ノ谷峠越えはそのトンネル1本の間を抜け
るためのもの。
そう思うと現代のトンネルの効果は絶大。
ここで再び休憩。
道の駅を出てからは、1号線にしばらく平行している
旧道を岡部川に沿って歩く。
(11)岡部宿案内板【10:45】
(13)柏屋資料館【10:55】
(14)内野本陣跡【10:56】
町おこし事業で綺麗に復元され、公園化されている。
(15)五智如来公園【11:13】
誓願寺の境内に安置されていた五智如来像を移し、公園
として整備。
五智とは、全てを映し出す智(阿閦如来)、全ての存在
を平等に見る智(宝生如来)、全てを正しく観察する智
(阿弥陀如来)、全てを救う方法を知る智(釈迦如来)、
他の四智をまとめる智(大日如来)だそうだ。
岡部の街並み。無電柱化されている。【11:14】
(16)松並木【11:19】
一日目に通った「細井の松原」はたった1本しか松が
なかったが、ここはかなりの松が並んでいて、旧東海道
の面影を感じさせてくれる。
この後、通り道にあるスーパーのイートインコーナーで
昼食。
(17)岡部宿の道標【11:52】
(18)従是(これより)西田中領の標識【12:09】
新しく作り直したもののようだ。
(19)鬼島の建場【12:25】
「建場(たてば)」は一般的には「立場」と書き、幕府
公認の宿場と宿場の間の休憩施設・「お休み処」があった
ところで、発展すると「間の宿(あいのしゅく)」となる。
(20)藤枝宿の説明看板【12:48】
(21)藤枝宿の説明看板【13:06】
商店街のフラッグ【13:13】
東海道藤枝宿を掲げているが、残念ながら旧東海道風の
情緒は感じられない。
(22)藤枝宿の道標【13:17】
(23)蓮生寺(れんしょうじ)【13:17】
藤枝宿の福井氏が、熊谷次郎直実(法名・蓮生)を畏敬
し、家財を投げうって建立したと伝えられている。
熊谷次郎直実(1141-1207)は、鎌倉時代初期、武蔵国
熊谷郷(現・熊谷市)で活躍した武将。
一ノ谷の戦いでは、平家の若武者、平敦盛を打ち取るが、
息子ほどの年齢の若者の命を奪ったことによって戦の無
情さや世の無常観を感じ、心に深い傷を負い、のちに
出家した。
この時のことは「平家物語」の中に描かれ、能や歌舞伎
でも熊谷直実の無常観として上演されている。
その後、法然に弟子入りし蓮生(れんせい)と名乗り、
京都で修行を重ね、熱心な念仏信者となり、各地に寺院
を開基している。
(24)藤枝宿の道標【13:33】
(25)上伝馬問屋場跡【13:35】
パーキングの看板に記載されている。
何らかの石碑でもあると思い込んでいたので、通り過ぎ
てしまうところだった。
(26)一里塚跡と常夜灯【13:45】
(27)青木の交差点
ここで旧東海道から逸れ、藤枝駅に向かった。
途中見つけたマンホールの蓋。藤がデザインされている。
その後、藤枝駅に14:00に到着。
今回の歩き旅はここですべて終了。
3日目の歩行時間は、休憩も含めて6時間強だった。
旧東海道といっても、四百年前の情緒が残されているとこ
ろの方がはるかに少なく、そもそも昔はなかった舗装道路
を歩くので、その意味では明らかに全く別物ではある。
しかし、昔の人が同じ経路を同じように自分自身の足で一
歩ずつ歩き、周囲の風景を、ひょっとしたら同じような感
慨を持って見ていたかもしれないと想像するのも、楽しい
ものだと再認識。
なお、調べると、彼らは1日に35~40キロを毎日歩き、
全行程を12日から15日で踏破していたらしい。
実際に歩いてみて、それはとても我々が簡単に真似できな
い事だけはよく分かった。
今回の三日間は天気が良すぎて熱中症予防に気を遣った。
550CCのペットボトルは1日に4本以上消費し、こま
めに小休止をとった。
この続きは、少し暑さが収まってからにしたいと思っている。
<全体のメインメニューは下記をクリック>
<https://sites.google.com/view/slowly-walker>