◆旧浦賀道_大船-戸塚 ― 2021年05月17日
2021年05月15日(土)晴れ
西浦賀道の大船から戸塚の区間を歩いた。
(1) 大船駅方面交差点【10:19】
この交差点からスタート。

(2) 砂押川(すなおしがわ)プロムナード【10:21】
鎌倉市や民間などが主体となって、1995年から整備が
始まった遊歩道。桜の名所になっている。

(3)青木神社【10:26】
建武2年(1335年)に建立されたとのこと。

(4)笠間の庚申塔【10:30】
左から延宝8年(1680)、正徳4年(1714)、文政6年
(1823)、万延元年(1860)の建立。


(5)今泉村不動【10:33】
今泉村は戦国期にはすでに古文書に出てくる村名。
慶長6年(1601年)今泉村は東海道戸塚宿の助郷(すけ
ごう)村の一つとなる。
幕府は各宿に一定数の人馬を常備するよう義務付けたが、
交通量が増大すると、宿場に用意されている人馬だけでは
足らなくなり、近隣の村々から人馬を集めた。
これを制度化して、宿ごとに補助する村を定めたものが
助郷制。

(6)道標【10:37】
元禄4年(1691年)に建てられたもので「従是とつか道」
「従是ぐミやうじ道」と書かれている。(従是=これより)

(7)延命地蔵【10:38】

(8)三島神社【10:58】
元和元年(1615年)に創建された村社。
(3)の青木神社の「兼務社」のひとつ。
兼務社(けんむしゃ)とは、専属の神職がおらず、別に
本務社を持った神職が社務を兼任している神社のこと。
日本全国にはおよそ8万の神社があるが、神職の数は2万人
程度であるため、必然的に1人の神職が複数の神社を兼務
しているのが現状とのこと。



(9)歳来寺閻魔堂【11:03】
ただの民家としか見えない。後日調べたが詳細不明。


説明板の文字が剥げてしまっていて読めない。
ネットに昔の画像があったので示す。

(10)かいがら坂 道標【11:14】
この周囲は、以前は地層<長沼層(横浜南部地域の古期
ローム層>の一部が表に出ていて、貝化石を見ることが
できたため「はまぐり坂」とも呼ばれていたが、昭和52年
に愛称募集した際「かいがら坂」と名付けられたそうだ。
(「広報よこはま・栄区版」より)
しかしながら、調べてみると、江戸時代初期には既に
「貝殻坂」の名称があったという話もある。
「祐之地震道記」という元禄16年(1703年)の元禄地震の
当日以降の街道周辺の様子を記したものの中に、戸塚から
鎌倉まで視察に出掛けた遣いの者の話として、「これより
鎌倉までの在郷、悉家つぶれて見ゆ。貝がら坂の大切通は、
山崩て道塞る。木の根などにとりつきて越たり。」と書か
れているそうだ。

(11) 南谷戸(みなみやと)の大わらじ【11:30】



(12)延命地蔵尊【11:34】
延命地蔵尊は、生まれた子を守って寿命を延ばし、短命や
若死を免れるために信仰された。

(13)かまくら道道標【11:34】

(14)英勝寺への道標【11:41】
鎌倉唯一の尼寺として知られている英勝寺への道標。
天明8年(1787)の建立。
「めんかけ如来 かさこひ太子 右かまくら 道」。

(15) 「出羽三山供養碑」【11:47】
山形県の出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)参拝の記念に
造立された石塔で、主に東日本に分布しているとのこと。
道標を兼ねており「月山 湯殿山 羽黒山」の下に刻まれて
いる方向は「右かまくら道」。
寛政10年(1798)の建立。


(16)蔵田寺【11:49】

(17)地下横断道【11:54】
JR東海道線を横切る

(18)八坂神社前交差点【12:03】
旧東海道との分岐点。
「かまくら道石柱」が歩道の隅に立っている。



ここまでで、今日の浦賀道の歩行時間は、
合計1時間44分だった。
これ以降、周辺の史跡を回った。
(19)富塚八幡宮


(20)八坂神社


(21)澤邊本陣跡

◇中山道沿い富士塚 ― 2021年01月08日
(1)浅間山古墳(せんげんやまこふん)
埼玉県児玉郡上里町神保原 高さ6m
(旧中山道 本庄宿)
2019年11月9日(土)
下記の(42)
<http://slowly-walker.asablo.jp/blog/2019/12/06/9185885>
古墳時代の末期、7世紀~8世紀初頭まで墓として使用され
ていたと考えられている古墳で、直刀や鉄鉾などが出土し
ている。中腹に祠があった。




石室開口部廻りは金属製で、明らかに後世の造作。
開口部の中はよく見えなかったが、ネットには次の写真
があった。


(2)浅間山古墳
高崎市倉賀野町 高さ14m
(旧中山道 倉賀野宿)
2019年12月4日(水)
下記の(64)
<http://slowly-walker.asablo.jp/blog/2019/12/15/9189661>
4世紀末から5世紀初頭頃の築造と推定される前方後円墳。
群馬県内では太田天神山古墳(太田市)に次ぐ第2位で、
関東地方では太田天神山古墳、舟塚山古墳(茨城県石岡市)に
次ぐ第3位の規模の古墳。



高崎市のHPに上空からの写真があったので、以下に示す。


(3)板橋氷川富士
東京都板橋区氷川町21-8 高さ2m
(旧中山道、旧川越街道 板橋宿)
2020年2月11日(火)
下記の(2)
<http://slowly-walker.asablo.jp/blog/2020/02/16/9214617>
氷川神社の境内に富士塚が現存し、板橋氷川富士と呼ばれ
ている。
1847(弘化4)年銘の奉納碑などから、板橋区内の富士塚では
唯一江戸時代に築山されたと考えられているそうだ。




(4)下練馬富士
東京都練馬区北町2-41-2 高さ8m
(旧川越街道 下練馬宿)
2020年2月11日(火)
下記の(19)
<http://slowly-walker.asablo.jp/blog/2020/02/16/9214617>
北町浅間神社内にある。
区内最大規模の富士塚で、明治初年に築造されたというが、
文政五年(1822年)の石碑があることから、江戸時代すで
にその原型があったと思われるとのこと。





(5)浅久保富士
埼玉県和光市中央1丁目3−22 高さ3m
(旧川越街道 白子宿)
2020年2月11日(火)
下記の(19)
< http://slowly-walker.asablo.jp/blog/2020/02/16/9214617 >
民家(公民館らしい)の横の細い脇道を入っていく。
あまり高くはないが本格的な富士塚で、多くの石像が見ら
れる。
ただ、登山道はコンクリートで固められていて、あまり
古いものではないようだ。
後日調べたら、1873年(明治6年)築造とのこと。




丸に吉のマークが見えるのは丸吉講(まるきちこう)の碑。
丸吉講は、江戸時代後期から明治時代に、現在の埼玉県
新座市周辺で隆盛した富士講の一講社。


(6)仙波浅間神社&浅間神社古墳
川越市富士見町21 高さ5m
(旧川越街道 川越宿)
2020年11月15日(日)
下記の(22)
<http://slowly-walker.asablo.jp/blog/2020/11/26/9320645>


上記には「近隣の多くの村が講を作り寄進した」と書かれて
いて、これは「富士講」のことだと思われる。
また、次以降の写真を見れば、社殿裏に作られているのは
明らかに「富士塚」。


次の写真は富士山の噴火口を模したもの。
今まで訪れた富士塚では見たことがなかった。


左端の石塔には丸吉講(まるきちこう)と思われる「吉」
の字が見える。

(7)雀ノ森氷川神社&富士塚
川越市新宿1-22-5 高さ3m
(旧川越街道 川越宿)
2020年11月15日(日)
下記の(23)
<http://slowly-walker.asablo.jp/blog/2020/11/26/9320645>
雀ノ森氷川神社は旧新宿(あらじゅく)村の鎮守であり、
「雀ノ森」は「鎮めの森」の意ではないかとも言われて
いるそうだ。
9月1日の夜に、雀ノ森氷川神社の境内社である浅間神社で
行われる火祭り「新宿(あらじゅく)雀ノ森のお焚き上げ」
は市指定文化財となっている。
当日は、白装束の行者が境内にある富士塚に登って「身禊祓
(みそぎはらえ)」という祝詞を読み上げ、さらに仮宮に
移動して「富士山御伝(おつたえ)」を読み上げる。
同地区では富士講が盛んで、かつては山梨県富士吉田市の
北口本宮冨士浅間神社への代参を、毎年のように行ってきた
とのこと。
「お焚き上げ」はこの富士講に関連する行事であり、北口
本宮で行われる「吉田の火祭り」を模して、明治18年
(1885)に始めたものという。



頂上から見た参道(山道)
コンクリートで綺麗に整備されているのが、ちょっと
ザンネン。





◆旧児玉往還_高坂-奈良梨 ― 2020年12月05日
2020年11月17日(火)晴れ
前日に続いて児玉往還を歩いた。
旧川越街道は、旧中山道板橋宿の平尾追分から川越城下に
至る街道で、川越からはさらに児玉宿(現埼玉県本庄市
児玉町)を通る児玉往還となり、上野国藤岡に通じて旧
中山道に合流している。
この二つ道を合わせて川越児玉往還とも言い、旧中山道の
脇街道として使われた。
(1)高坂駅への交差点【7:03】
前日の終了地点から出発。

街道風景

(2)高坂館跡【7:09】

(3)高済寺【7:09】
1600年代の開山。
高坂刑部(秩父氏の一族)の陣屋跡。



(4)道標【7:16】

(5)庚申塔&馬頭観音【7:19】

(6)道標【7:35】

街道風景

(7)祠【7:46】
街道からはだいぶ離れた場所にあったが、あぜ道を勝手に
通るわけにもいかず、近寄れないので詳細不明。

(8)石仏群【7:49】

中央にあるのは安政六年(1859)の銘のある雨降山常夜燈。
常夜燈の笠の上には天狗の像がある。
なお、「雨降」はアフリと読み、阿夫利信仰を指す。


街道風景
歩道があるのはいいのだが、歩道の両側から草が伸びていて、
いささか歩きにくい。

(9)道標【7:54】
道から1メートル程度離れた場所にあり、かなり小さいので
見落としやすい。 「右・・・」と読めるので道標らしい。

(10)国道への階段【8:00】

(11)石仏群【8:12】

(12)灯籠【8:14】

(13)阿夫利神社御神燈【8:27】
阿夫利神社は神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社。
大山を信仰とする大山講は江戸時代中期から後期にかけて
最盛期を迎えるが、講の代参者が多く通る街道沿いでは、
参拝する人たちの安全を祈願したり、道明かりとして、
灯籠を建てたとのこと。

(14)八幡神社鳥居【8:31】

(15)庚申塔【8:34】

(16)八幡神社【8:34】



(17)庚申塔【8:46】

(18)道標?【9:02】

(19)庚申塔?【9:10】

(20)菅谷実一尋常高等小学校跡【9:45】
ちなみに、尋常高等小学校とは、尋常小学校(6年制)と
高等小学校(2年制)が一つにまとまっていた戦前の制度
による学校。

街道筋の民家

(21)東昌寺【9:59】



(22)志賀観音堂の石仏群【10:19】




(23)庚申塔【10:22】

(24)道標【10:31】

(25)雨降山灯籠【10:35】
(8)項と同じように「雨降」はアフリと読み、阿夫利信仰を
指す。(13)項と同じ大山講の灯籠だと思われる。

(26)庚申塔と大黒天石碑【10:40】
大黒天はインドから伝わった破壊と豊穣の神だが、
古くからの神道の神である大国主と混同され、習合して、
豊穣の面が残り、七福神の一柱の大黒様として、食物・
財福を司る神となった。
像容も、江戸時代になってから、米俵に乗り福袋と打出の
小槌を持った微笑の長者形で表されるようになった。

(27)庚申塔と道標【10:44】

(28)庚申塔【10:51】

(29)石塔【10:52】
詳細不明。

(30)大黒天石碑【11:04】

(31)庚申塔【11:14】

(32)大黒天石塔【11:17】

(33)馬頭観世音【11:17】
作り直されたものか、かなり新しい像だ。

(34)八和田村道路元標【11:18】

(35)奈良梨の交差点【11:18】

本日は予定通りこの交差点までとした。
ここまでの、休憩を含めた歩行時間は4時間15分だった。
その後、近くの奈良梨のバス停(次の写真)で小川町まで
移動する予定だが、出発時間まで少し時間があったので、
近くの八和田神社を参拝した。

(36)八和田神社


本日出会ったマンホールの蓋を以下に示す。
嵐山町
大ムラサキやバッタ、ホタルの飛び交う自然環境の良好な
嵐山町を イメージしたデザイン

小川町
市野川流域下水道(滑川町、嵐山町、小川町対象)のもの。
県章と清流を泳ぐ魚や、森や鳥、蝶のデザイン。

小川町
周囲に町の木「ケヤキ」、内側に町の花「フクジュソウ」。
内側下部に小川町の町章が入っている。

◆旧児玉往還_川越-高坂 ― 2020年11月30日
2020年11月16日(月)晴れ
前日の旧川越街道に続いて、川越から児玉往還を歩いた。
旧川越街道は、旧中山道板橋宿の平尾追分から川越城下に
至る街道で、川越からはさらに児玉宿(現埼玉県本庄市
児玉町)を通る児玉往還となり、上野国藤岡に通じて旧
中山道に合流している。
この二つ道を合わせて川越児玉往還とも言い、旧中山道の
脇街道として使われた。
(1)札の辻交差点【7:56】
前日の終了地点から出発。

(2)六塚稲荷神社【7:59】

(3)高沢橋【8:00】


(4)本応寺【8:02】

(5)古い標柱【8:05】
民家の玄関先にあって、「堅村屋酒」と読める。
後日調べたが詳細不明。

(6) 八咫神社(やたじんじゃ)【8:28】
毎年のように氾濫する入間川をおさめるために祀られた
とのこと。
創健年は不明だが、古い記述によると奈良時代に僧「祐
阿弥」が再興したとされている。


この八咫神社には、二つの川越市指定の無形民俗文化財が
ある。「まんぐり」と「上寺山の獅子舞」。
(7)馬頭観音【8:52】


(8)天満宮【9:01】

(9)地蔵尊?【9:12】

(10)北向不動尊【9:15】
街道面からは祠の裏側しか見えないので、ただの納屋に
しか見えない。写真は祠の正面に回って撮ったもの。
ネット情報によると、最初は南向き、つまり街道の方に
向いて建ててあったが、あまりにみごとな不動尊に街道
を通る馬が恐がって動かなくなるので、北向きに変えた
のだという。
ちなみに、不動尊(不動明王)は、優しさだけでは通用
しない人々を救済するために、あえて怒りの形相をして
いるそうだ。
邪悪な相手には徹底的に厳しく、人が間違った道へ進も
うとした時には、正しい道へと戻れるように諭してくれ
る存在とのこと。

中をのぞいて撮影したが、よく分からなかった。

不動尊の近くにあった石塔?

(11)街道風景【9:19】

(12)多頭観音【9:42】

(13)庚申塔【9:55】

(14)街道風景【9:56】

(15)地蔵尊【10:21】
周囲の雑草が酷くて見落としそうになった。

(16)大堀山館跡(おおほりやまやかたあと)【10:28】

(17)庚申塔と地蔵尊【10:38】

(18)八坂神社【11:13】

(19)大宮住吉神社標石【11:20】

(20)塚越神社【11:24】

(21)庚申塔【11:29】

(22)地蔵尊【11:34】


(23)宗福禅寺【11:35】

(24)神社?【11:39】
入口に「明治四十一年四月」の標柱があるが詳細不明。

(25)須賀神社【11:41】


(26)〆松地蔵尊(しめまつじぞうそん)【11:49】
周りがブレース(筋交い)丸見えの赤茶けた鉄骨造りと
いうのは初めて見たが、ちょっと可哀そうに思える。
〆松地蔵は、もとは兄の地蔵といっしょに大智寺にいたが、
お供え物の分配で兄弟喧嘩になり、兄地蔵にここまで投げ
飛ばされてしまったのだとか。
すると、大日様(大日如来)がやってきて「兄地蔵は寺で
死んだ人を護ってもらうから、お前はここで村人や旅人、
牛や馬を護ってあげなさい」と諭され、その後は村人に大
事にされた。ということだそうだ。
お地蔵様同士の兄弟喧嘩という設定は、昔は宗教が非常に
身近で庶民的だったことを示しているようで微笑ましい。


〆松地蔵尊から見た街道風景

(27)街道風景【11:59】
街道沿いにシールド機(穴を掘る機械)の先端部品らしき
展示物があった。
後日調べたら、「石井水処理センター」のようだった。
詳細不明だが、水路のトンネル工事でもしたときの記念
だろうか?

(28)島田橋への交差点表示【12:03】

街道の旧家

(29)石仏石塔群【12:10】


(30)島田橋【12:12】
洪水時には橋面が水面下になる冠水橋。
(沈下橋という名称が広く知られるが、河川行政用語と
しては「潜水橋」が公式名称とのこと。)
明治初期に木製の橋が架けられるまでは、ここの往来は
島田の渡しといわれた渡し船だった。
1920年(大正9年)に300m程下流に新しく高坂橋(現在
の国道407号の橋)が建設されると、島田橋から600m程
しか距離が離れていないことから、両岸間連絡は高坂橋
に取って代わり、島田橋は木製のままとのこと。



橋は車(1.5t以下)も通れる。
両側の堤防には車用のスロープの道があるが、徒歩の場
合は階段があるので、そこを通る。

旧街道を感じさせるのどかな雰囲気や素朴な姿と、都心
からの交通の便がよいことから、テレビや映画のロケー
ション撮影に度々使用されているそうだ。
ネットにドラマ『JIN-仁-』の一場面があったので、以下
に示す。

(31)道標?【12:32】
古い道標か?詳細不明。
ここで国道を横断するのだが、横断歩道もないので、ここ
を直接は横断できない。

(32)街道風景【12:32】

(33)地蔵尊&庚申塔【12:34】

(34)六地蔵【12:39】

六地蔵の隣の庚申塔

(35)長松寺【12:42】

(36)髙坂駅への交差点【12:49】

予定通り、本日はここまでとした。
休憩を含めた歩行時間は4時間53分となった。
この後、高坂駅周辺で昼食後に電車で東松山駅まで移動。
宿に入るには早すぎるので、東松山駅近くの箭弓稲荷神社
(やきゅういなりじんじゃ)を見学した。
ボタン園が有名。




ボタン園


本日出会ったマンホールの蓋を以下に示す。
坂戸(さかどし)
坂戸、鶴ヶ島水道企業団マスコットキャラの「さかつる
ちゃん」と消防車のデザイン。

川越市
時の鐘のデザインに市章と小江戸川越の文字。

東松山市
市章と市の花・ボタンのデザイン。
東松山市はボタンの栽培が盛んで、前掲の「箭弓稲荷神社」
以外にも「東松山ぼたん園」に約91 00株あるという。















































