◆旧甲州街道_八王子-小仏 ― 2021年10月20日
2021年10月18日(月)晴れ
旧甲州街道の西八王子と小仏峠間を歩いた。
10:12に西八王子駅をスタート。
「千人同心」のポール

(1) 西八王子駅東交差点【10:14】
前回の終了地点。ここからスタート。
前回は見落としていたが、馬場横丁という石碑があった。
この通り付近に千人同心の乗馬練習場があったことから、
この通りは馬場横丁と呼ばれていたという。

(2)道標【10:28】
「右高尾山道」「左真覺寺道」と刻まれている。


(3)長安寺【10:32】

(4)道標【10:49】

(5)山王社【10:52】
松姫所縁の「子育地蔵」がある。写真の右側の祠。
松姫は竹田信玄の六女で、武田家滅亡後八王子に移った。

(6)石地蔵尊【10:55】

(7)黒塀の旧家【10:56】
旧街道の趣が感じられる。


(8)熊野神社【11:01】

(9)石地蔵尊【11:22】

(10)高尾駒木野庭園【11:28】

(11)地蔵尊【11:30】

(12)祠と石碑【11:32】
後日調べたが詳細不明。

(13)駒木野橋碑【11:33】

(14)小仏関所跡【11:34】


(15)駒木野宿碑【11:35】

(16)念珠坂碑&石仏群【11:38】


(17)石仏石塔【11:43】

(18)梅郷橋【11:44】

(19) 蛇滝旅籠(じゃたき はたご)【11:47】
高尾山は修験道の山であり、「琵琶滝」と「蛇滝(じゃたき)」
は三百年ほど前に滝修業の水行道場として整えられた。
蛇滝旅籠はそのための休息所で、江戸後期には「ふぢや新兵衛」
という旅籠屋だった。
神道の「みそぎ」同様、水で心身を清める行為は仏教でも
「垢離(こり)」と呼ばれ、それが日本古来の山岳信仰に
由来する「滝への崇拝」と結びついたのが「滝行」といわ
れている。


調べた資料には「軒下には(神田・二見)など講の名を彫った
札が並んでいる。」と書かれてあったが、今は次の拡大写真の
ようにすべて剥がれていた。

旅籠脇の石塔
文字の劣化が激しくて読み取れないが、高尾山中腹にある
蛇滝への道標だと思われる。

(20)いのはな慰霊碑入口【11:48】

(21)道標【11:55】
後日調べたら「是より高尾山道」と書かれてあるそうだ。

道標の向かい側にあった「蛇滝水行道場入口」の標柱。

湯の花梅林

(22)常林寺【12:01】

道端に集められていた壊れた裸婦像
一見すると「彫刻の森」的なモニュメントに見えなくもないが、
ただ産業廃棄物として放置されているだけのようだ。

(23)浅川国際マス釣場【12:08】
コロナ感染予防のため休業中かと思ったが、そもそも普段
でも月曜日は休業日とのこと。

(24)道標【12:12】

(25)赤レンガガード【12:15】

(26)京王バス終点【12:26】


まだ東京都内(!)ということで、平日でも少なくとも
1時間に1本はバスの運行があった。
ここでトイレ休憩。
(27)寶珠寺【12:41】

(28)景信山登山口の道標【12:49】

(29)登山道への分岐点(駐車場)【12:53】


山道風景
道幅も広くて険しくはないが、勾配はそこそこあり、軽登山
の趣。

(30)小仏峠【13:17】



本日はここまでで終了とした。
歩行時間は休憩を含めて3時間3分だった。
このあと、(26)のバス停まで戻り、14:10発のバスで
帰宅。
以上
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◆旧甲州街道_日野-西八王子 ― 2021年10月14日
2021年10月11日(月)晴れ
甲州街道の日野と西八王子間を歩いた。
10:20に日野駅をスタート。
(1)庚申塔【10:24】




写真の左側に少し映っているのは境内にある「火の見櫓」。











江戸時代から続く蔵造りの荒物店「加島屋」。
この店蔵が建てられたのは明治20年とのこと。

後日調べたら、ここは多賀神社に向かう坂道だったそうだ。
坂の名は坂下にあった子育て地蔵(別名車地蔵)にちなみ、
また、「三年坂で転ぶと三年のうちに死ぬ」という言い
(他の資料では、ここでころんでも三年たてば治るので



「あんげ道」とは案下道と書き、現在の陣馬街道。
入口に設置された美少女イラスト看板から「萌え寺」とし
祀られている「新護弁財天」が音楽・芸術の神であること
住職は最初見たときは愕然したというが、家族や檀家に相





組の「頭」は現在の千人町周辺に住み、同心たちの多くは



「車人形」とは、幕末に多摩地方で始まった郷土芸能で、

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◆旧甲州街道_府中-日野 ― 2021年10月07日
2021年10月4日(月)晴れ
旧甲州街道の府中から日野間を歩いた。
行政区分としては、府中市、国立市、立川市、日野市
の4つを横断することになる。
10:10に府中本町駅に到着。そこからスタート。
(1)大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)【10:17】
府中とは、律令時代に武蔵国の国府(今の県庁)が置か
れたことに由来し、大國魂神社の門前町として発展した。





(2)府中町道路元標【10:24】
大國魂神社の正面入口の脇にあった。
大正9年に設置されたもの。

(3)ケヤキ並木馬場寄進碑【10:25】


万葉の歌碑もあった。

(4)神戸(ごうど)碑【10:28】
同様の形態の案内板がこのあといくつかあったが、
いずれも書かれている文字が非常に読みづらくて残念。
ちなみに、神戸(ごうど)は、現在の府中市宮西町
二丁目の旧甲州街道沿いの集落のこと。
番場宿(項(7)参照)に属しており、この地に郡家
(こほど、ぐんけ)があったことにより、それが転訛
してゴウドとなった。ということが書かれてあった。

(5)高札場&道標【10:31】



(6)札ノ辻(ふだのつじ)、問屋場跡(中久本店)
【10:32】


(7)番場宿&番場公園【10:34】
府中宿は府中三町「番場・本町・新宿(しんしゅく)」
によって構成されていたが、その中の番場宿の記念碑。


(8)鹿島坂碑【10:36】

(9)高安寺【10:41】
足利尊氏(1305-1358)が、元々この地に
あった市川山見性寺を再興し、龍門山高安護国禅寺と
号したのがはじまりとされている。
尊氏が改名する前の高氏から名づけられたとされて
いるそうだ。



(10)片町碑【10:44】
番場宿に属している街道沿いの集落で、北側の片側
だけが発達したことに由来。

(11)弁慶坂碑【10:45】

(12)弁慶橋標石&石橋供養塔【10:48】


(13)坊屋の坂【10:48】

非常に読みにくいが、「棒屋」と呼ばれる家があった
ため、そのように呼ばれるようになったということ。
(14)本陣門【10:56】
特に何の掲示もなかったが、府中宿矢島本陣の表門を
移築したものだそうだ。


(15)常夜灯【11:03】

(16)本宿碑【11:06】

(17)武蔵府中熊野神社古墳【11:08】
飛鳥時代の七世紀中頃に築造された古墳。
四角い墳丘(ふんきゅう)の上に丸い墳丘が重なった形
の上円下方墳で、この形は全国的にも非常に希少な形。
石が葺ふかれている上円下方墳の中では最大規模であ
り、もっとも古いものとのこと。

傍には「内藤道」の石碑もあった。

(18)獅子宿碑【11:21】

(19)旧本田家住宅【11:21】
本田家は、代々地主・名主として、また地域に貢献
する医者、文人書家として活躍。
また、新選組の土方歳三が本田家の親戚筋にあたり、
近藤勇とともにこの家を度々訪れていたという。
この建物は江戸中期のものであり、東京都の民家と
しては最古クラスで、東京都指定有形文化財。


(20)常夜灯【11:23】

(21)関家かなどこ跡【11:25】

(22)谷保天満宮【11:29】


(23)地蔵尊【12:06】

(24)潤澤学舎(じゅんたくがくしゃ)跡【12:08】

(25)馬頭観音【12:09】

(26)常夜灯【12:13】

(27)五智如来(ごちにょらい)【12:17】

(28)青柳地蔵堂&常夜灯【12:25】


近くに馬頭観音や石橋供養塔もあった。


(29)道標【12:42】

(30)旧甲州街道掲示板【12:44】
(31)道標【12:47】

(32)道標【12:48】

(33)日野渡し場跡【12:49】


向かい側に馬頭観音もあった。(写真の左の小さな碑)
右側は何の碑か不明。

その後、すぐ近くの多摩川の土手に上る。

土手からの眺め。
既に河原には多くのススキが見られる。

(34)立日橋(たっぴばし)
立川-日野間で、大正15年までは橋がなく「日野の
渡し」が使われていた。


(35)日野渡船場跡【13:00】


日野市に入る。

道端に、旧甲州街道の資料がたくさん掲示してあった。
(個人的に掲示したのか?)

(36)東の地蔵【13:14】


道標

(37)有山家【13:18】
有山彦吉氏を筆頭にした有志が明治15年(1882
年)に設立した元日野銀行の建物。
明治の日野宿大火や、関東大震災を経て、昭和初期頃
に現在の人造石洗出し仕上げの意匠に改修。
なお、有山彦吉氏は土方歳三の甥っ子だったそうだ。


(38)高幡不動道標【13:21】
高幡不動尊金剛寺は関東三大不動(成田山新勝寺、埼
玉県加須市總願寺)の一つで、土方歳三の菩提寺。

(39)日野宿交流館【13:22】

(40)日野宿本陣・脇本陣跡【13:22】



(41)高札場・問屋場跡【13:24】

(42)渡邉家(蔵)【13:27】
説明板の記載が非常に読み辛い。

「中村屋」という屋号で、味噌、醤油、酒を取り扱う
万屋(よろずや)の店蔵として使われていたそうだ。
(43)金子橋跡【13:28】

(44)八坂神社【13:29】



(45)道標【13:31】
個人的に作られたもののようだ。

(46)上宿の辻公園【13:32】

(47)道標【13:34】

(48)道標【13:35】

(49)西の地蔵【13:38】


予定通りここまでで終了。
歩行時間は休憩時間も含めて3時間11分だった。
以下に、今回街道で見つけたマンホールの蓋を示す。
府中市
府中市の花「ウメ」を描いたマンホール蓋

府中市
市の鳥「ヒバリ」が2羽描かれたもの。

府中市
市の木「ケヤキ」をデザインしたもの。

国立市
亀甲模様の標準品。中央に市章が描かれている。

立川市
立川市の花コブシをデザイン。
周りに「HEALTHFUL CITY(健康的な都市)」「TACHI KAWA」
の文字。

日野市
市の鳥「かわせみ」をデザイン。

◆旧浦賀道_鎌倉-大船 ― 2021年06月02日
2021年05月30日(日)晴れ
西浦賀道の鎌倉から大船の区間を歩いた。
(1) 蛭子神社【9:10】
前回の終了地点からスタート。

(2) 辻説法跡【9:12】

(3)若宮大路幕府旧跡【9:17】
鎌倉幕府の所在地は3か所ある。
頼朝が開いた「大倉幕府」(1180-1225)
四代将軍藤原頼経が執務した「宇都宮辻子(うつのみや
ずし)幕府」(1225-1236)、
藤原頼経から最後の9代将軍守邦親王まで97年間執政が
行われた「若宮大路幕府」(1236-1333)の3つ。
ここはその最後の幕府の跡。
しかしながら、今は、住宅街の中の細い路地の一角にこの
碑があるだけ。
北条時宗が元寇に立ち向かう評定を開いたのもこの場所と
いうことだが、石碑以外に何も史跡はない。

(4)土佐坊昌俊(とさぼうまさとし)邸址【9:19】
土佐坊昌俊は源頼朝に仕えた武将。
1185年(文治元年)10月17日、頼朝の命により、
京にいる源義経の邸に夜襲をかけたが、事前に襲撃を察知
していた義経に逆に捕らえられる。
この襲撃は、義経を挑発して頼朝や幕府に逆らったという
決定的な事実を作るためだったと言われており、失敗すべく
考えられたものだったが、昌俊はそれを知っていて、悲壮
な覚悟でこの役を引き受けたという。
『義経記』では、義経は捕らえた昌俊を鎌倉へ返そうと
するが、昌俊は死を願い出て、駿河清重に討たれたと
されている。
襲撃を受けた翌日、義経が後白河法皇より頼朝追討の宣旨
を受けると、10月24日、頼朝は直ちに義経討伐を命令
している。
兄弟げんかの政変に、自分の命まで懸けたということに、
現代との価値観の相違だけでは済まされない、何か苦い
虚しさを感じてしまうのだが。

(5) 北條執権邸(ほうじょうしっけんてい)旧蹟【9:20】

碑文の詳細がネットにあったので、以下に示す。
「昔この場所に、北条氏の小町亭がありました。
北条義時(よしとき)以後代々の執権(将軍代理職)はたいてい
ここに住みました。
あの北条高時が、朝に夕に宴会をして、ときには田楽法師に
対して、列席している重臣と共に、 ひたたれや袴(はかま)を
投げ与えて褒美(ほうび)の山を築いたというのもこの場所です。
1333年に新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉に攻め入った時、
戦火で焼けて灰になってしまいました。
現在の宝戒(ほうかい)寺は、 1335年に足利尊氏が建てたもの
です。この寺は高時一族の恨みを鎮めるために、北条氏の
菩提寺であった東勝寺を、この屋敷跡に建てて名前を変えた
ものであります。
(6)宝戒寺【9:20】


(7)鶴岡八幡宮【9:23】
言うまでもなく、鎌倉の代表的な史跡で観光地。
1063年(康平6年)に、源頼朝の先祖源頼義が「源氏の
氏神」である京都の石清水八幡宮を由比郷鶴岡に勧請したの
がその始まり。
鎌倉幕府滅亡後も「武門の神」として足利氏、後北条氏、
豊臣氏、徳川氏に崇敬された。
現在の本宮は1818年(文政11年)、江戸幕府十一代将軍
徳川家斉に、若宮は1626年(寛永3年)、二代将軍徳川
秀忠によって修築造営された建物。

(8)鉄ノ井(くろがねのい)【9:25】
鎌倉十井(じっせい)のひとつ。
鎌倉十井は、鎌倉の観光名所とされた良質な水が湧いたり、
伝説が残ったりしている井戸で、江戸時代に『新編鎌倉志』
で選定された。
かつて浄光明寺の前に北条政子が創建した新清水寺があった
が、1258年(正嘉2年)に火事によって焼失。
その火事によってなくなった鉄の観音像が、江戸時代に
なってこの井戸から掘り出されたことから、鉄ノ井と呼ばれ
るようになったそうだ。

(9)青梅聖天社【9:31】

(10)石仏石塔群【9:32】
道祖神と庚申塔があるのは分かったが、その他は雑草が酷く
てよく分からなかった。


(11) 旧巨福呂坂の終点【9:32】
残念ながらここから先は私有地であり、行き止まり。

(12)二十五坊旧蹟【9:39】
鶴岡八幡宮に仕える僧侶(供僧)の住居坊があった場所。
供僧(ぐそう)とは神社で仏事に奉仕する僧。
坊とは供僧の住居のこと。
鎌倉時代にはこの僧侶たちは二十五人と定められ、
二十五坊の名はここから起きた。

(13)巨福呂坂(こぶくろざか)洞門【9:43】
鎌倉七口(鎌倉の出入口にあたる、山や丘などを切り開いて
通した七つの道)のひとつで、小袋坂とも書く。
今の道は明治に入ってから開削が行われたもので、鎌倉時代
に北条泰時が造ったと云われる巨福呂坂は既に消滅。

(14)円応寺(えんのうじ)【9:45】


(15)建長寺【9:48】
臨済宗建長寺派の大本山。
鎌倉時代の建長5年(1253年)の創建で、本尊は地蔵菩薩。
開基(創立者)は鎌倉幕府第五代執権・北条時頼。


(16)第六天社【9:50】
第六天社は建長寺の四方鎮守の一つで、南の方角の守護。
江戸初期には建てられたと考えられるそうだ。
写真のように、常時門扉が閉じられていて、例大祭と元旦の
2回だけ、合計で6時間位のみ、開けられるそうだ。
ちなみに、第六天とは仏教でいう「他化自在天」のことで、
魔王のごとき力を持つといわれ、神道では第六番目の神と
されているもの。

(17)甘露の井【9:57】
鎌倉十井(かまくらじっせい)の一つ。
鎌倉十井は、良質な水が湧いたり伝説が残ったりしている
井戸で、江戸時代に『新編鎌倉志』で選定された。
甘露の井は水が蜜のように甘く、「不老不死」の水といわれ
ていたが、現在は道路工事の影響で水の出が悪くなり、飲み
水としては適さないとのこと。



(18)浄智寺【9:58】


(19)東慶寺【10:08】

2005年に発売された「さだまさし」の歌「縁切寺」で
有名になった。入口前に次のような碑もあった。

(20)十王堂橋【10:15】
昔この近くに十王堂があったのでこの名が付いたという。

(21)鎌倉小坂郵便局【10:18】
鎌倉の風景に溶け込んだ、前庭が印象的な建物。
赤い昭和のポストがアクセント。
後日調べたら、入口付近の池に金魚が泳いでいて、この池は
円覚寺の裏山からの水が流れているそうだ。
(残念ながら、気付かずに見落としてしまった。)

(22)観音道標【10:25】

(23)せゐ志く橋碑【10:25】
今の橋名は「水堰(すいせき)橋」
鎌倉に駆け付けた武士達はここで勢揃いして隊列を整えたが、
その「勢揃い」が訛って「せいしく」に。さらに訛って
「すいせき=水堰」になったと、ネットに出ていたが・・・?

(24)成福寺(じょうふくじ)【10:28】
北条泰時の子、泰次により開かれた。
鎌倉唯一の浄土真宗の寺院。
小田原北条氏が、平地に建つ浄土真宗の寺院を反対勢力の
拠点になるとして嫌い、三浦や武蔵など周辺に移したため
というのが通説。
また、俳優の笠智衆さんが眠る場所でもある。


(25)離山(はなれやま)富士見地蔵尊【10:35】
旧鎌倉中ノ道沿いには、かつては、腰山、長山、地蔵山と
いう樹木の無い3つの山があり、それぞれが一つずつの独立
した山になっていたため、「離(はなれ)山」と呼ばれて
いたそうで、離山の地蔵尊と呼ばれていたとか。
ちなみに富士見は地名。
眼病に良いと伝わっているが、昔、蜂に目を刺されたカラ
スがこのお地蔵様のおかげですぐに治ったという伝説が
いわれのようだ。


(26) 大船駅方面交差点【10:45】
今回はここまでで終了とした。

今日の浦賀道の歩行時間は、合計1時間35分だった。
以上
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<https://sites.google.com/view/slowly-walker>





























































